出会う漢語
「一座建立(いちざこんりゅう)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。お茶に関する言葉である。厳密に言うと、「茶道」での概念で、「一体感」に近い。東方神起というグル-プの一人が、「ライブは客席とスタッフといっしょになってこそよいものができる」とインタビュ-に答えていた。まさに、この「一座建立」の意図するところだ。お茶会は主催者だけでなく、そこにいる人の全員が作り上げるときにすばらしいものになると、この言葉は使われてきた。教師なら、「生徒とつくる授業は素晴らしい」とおきかえてもよい。
漢語の名言は具体表現を抽象化する。まるで、冷凍食品のようだ。そして、具体の表現に出会うとたちまち解凍される。これは漢語がもつ特徴で、漢文素読の効用の一つでもある。素読で大成した昔の知識人にあやかれないかと我が子に漢詩を2から3編暗唱させた。食事やお風呂でしっこく教え、どうにか諳んじて言えるようになった。「花落ちること知る多少」を「鼻落ちること知る」と不気味な話と信じていたようだ。兄弟は中学校で漢詩を習って「花」と気づき、長年の恐怖から解放された。漢詩の題名は「春暁」、嵐の後の春の明け方の様子である。漢語は実に面白い。同音異義語が有り、混乱するのも一興である。音だけでも語り尽くせないが、意味までからむともう楽しくてしかたない。
「人という字は支え合って…」とはじまる金八語録も今や過去の遺物で、「人と人間は違う。人間は人と人の間に存在する」と哲学的な思考は難しく、「とりあえず、「間」をとって考えてみよう」とジョ-クをとばせるのが、漢語のおもしろさである。「間」も門がまえの中に「日」である。この部分に「月、雨」とか気候に関係あるもの、「耳、手、足」とか体に関係あるものトッピングしたらおもしろそうだ。そのときも、人○(にんげん)と読んでもよいのだろうか?
「親」や「新」という字の中には見えないけれど、辛さが隠れているなんて話をすれば、(気)木をつけて見たり、斤(き)ったりと意味深な話もできる。この漢字の分解はやや難である。よくある「立 木 見」を「木 辛 見」と分解する。重なる部分は木になる(気になる)。ここまでくれば、重さの単位で訓読みはない「斤」も、斧斤(ふきん)で「おの」のことだから、意味で読んで、切ったりしてもおもしろい漢字(感じ)ですませてほしい。
日本語は一字変えて、考えを深めさせることができる。近頃はやりの「働き方改革」も「方(かた)」を「甲斐(がい)」にとりかえて考えるとおもしろい。似ているだけに発想が広がる。出会う言葉はよく見ると、誤用、転用、拡大解釈と、言葉が生きていることを感じる。仕事で自己実現を図る働き「甲斐」も忘れ、一律に時間短縮や効率にこだわる働き「方」を進めるのはいかがなものか。多様性を認め、許す世の中なのに「違う人が悪い」では、「甲斐」でなく「害」になってしまう。