きばっど 捨ててよいものとだめなもの 2019.5.15
断捨離ブ-ムは心の在り方生き方まで変えている。自分なりの生き方が今までの財産だとすれば、整理整頓を急ぐばかりになんでも捨てているのでと懸念される。喫緊の問題としてよく話題になる「実家問題」もこの延長線上だろう。年老いた親が実家の整理整頓ができないまま天国へ行くと、残された子供がそれを片付けねばならないという問題だ。自分でやるとなると確かに大変だ。本当に切実な問題だ。経験した人ならその大変さはわかるはずだ。遺産相続や財産問題までからめばもういいかげんにしてくれとなるのもわかる。
ところが、「子供に迷惑を残してもよいのではないのか」という視点で話をしたい。実家問題で私自身もあれこれと処分した。私の母は几帳面とは言えなかったが、家計簿兼日記(「主婦の友」かなにかの付録だろう)を処分するとき、手がとまった。それに書き綴られた一行の記録に涙が止まらなかった。必要な時にしか実家に寄り付かない息子たちへの心配やあれこれと予定を尋ねた内容がメモとして書かれていた。実家問題で業者に頼んで整理してもらえば、けっして出会うことのない宝物である。
断捨離のプロの片付ける話を聞けば、処理済みの書類は「まず捨て」が原則らしい。私流に言うと、書類の中に書き込みがあれば、ただの書類ではない。それはその時の自分である。毎年の学園グル-プ校の入学式に参加して、メモをする。感動や感じた思いがそこにある。結果捨てることになるのだろうが、その時にもう一度見直すぐらいの思いはあってよいのではないか。そこで躊躇して捨てられない自分を悪者にしてはいけない。断捨離万能はやはりおかしい。
「おむつをかえてくれてありがとう」なんていう赤ちゃんはいない。自分でおむつをかえてみて、初めて母の苦労がわかる。そう考えると、だれもがありがとうの前借をしている。前の人には恩をかえせないようだ。だから後の人に返す以外にない。断捨離ばかりやるとこの恩の連鎖さえ断ち切ってしまう。生き方は楽にならなくてよい。生き方は大変なのが当たり前だとわかってほしい。
断捨離とは逆行する話をしているのも自覚している。しかし、買ってしまったものは大事に使えばよいし、大切なものほど人にあげればよい。何一つあの世にもっていけないから、思い出といっしょにあげるものがあれば最高だ。そんな整理整頓を始められないかと考えながら片付かない言い訳にしている。
断捨離ができた人は何一つ後悔せずいけるのだろうか。思いが残らないのは悲しくないのだろうか。せめて自分の生き方やポリシ-だけは断捨離しないでほしい。心の中に生きるあなたを思い出すのはそこだから・・・、そこまで断捨離したら写真には何も残らない。がんこな人はがんこなままに、愉快な人は愉快なままに、そんな思い出を残すためにも断捨離万能にこだわらずに生きたい。