きばっど あなたたがなくしたのはどの斧ですか 2019.4.23
なぜ、池の中から出てきた神様は木こりに三つの斧をみせてこう聞いたのか。俗にいう選択肢の問題である。内容は、金、銀、鉄の斧だった。ところで、銀の斧という選択肢はないのだろうか。「銀の食器」というと、ジャンバルジャンではないが、つい盗んでしまう高級感もある。銀の素材だと、毒をもられた時色が変わるなど、金にはない特性もある。こちらも貴重な金属である。一番高価な「金」を導くための選択肢だと推測はできる。しかし、日本人には金か鉄かの選択でよさそうだ。童話だと馬鹿にしないで考えてみると、二者択一が日本文化の特徴で、多くから選ぶが世界標準なのかもしれないのでは?
昔話で悪いが、とかく、「よいか、悪いか」の話が多い。残酷な題名の「舌きりすずめ」の中で、おみやげにつづら(トランク)を選択させる場面がある。大きいのか小さいのかの二者択一である。こぶとりじいさんや花咲爺さんの話もよいと悪いである。小さいころから、よいか悪いかで割り切る構造になれているのかもしれない。世の中に出ると、よいか悪いかだけですまされない場面に遭遇する。世界標準と考えると、割り切れないが本当だろう。
文化の影響がいろいろなものに及ぶとすれば、二者択一では国際的なものを理解することは不可能である。少なくとも選択肢は3つ以上あるという感覚はもちたい。もともと、日本文化は許容性の高い文化である。言語にしても外国のよいものを取り入れ、自国化しながら使用してきた。四季の移り変わりがあり、水蒸気となじむ風景は、ぼんやりと霞む。そういうあいまいさを美としてうけとめる風土がある。自然的な要因から見える日本はかなり多様性の国である。それなのにこの二者択一的な発想はどうしたのだろう。
いろいろな宗教の存在を許してきたのに、廃仏毀釈やキリスト経弾圧が起こるのはなぜだろう。異文化理解を進めるダメにはこの許容性を前面に出し、狂信的な二者択一は遠慮したい。みんな違ってみんないいと寛大になるには努力を要するが、いいか、悪いかだけでなく、まあこの程度かの幅はもちたい。
万葉集の詞書から元号がつくられる時代である。異文化理解に寛大な心をもてるような時代にしてはどうだろうか。歌を手立てとして人と人とのつながり、集う営みが「歌垣(かがい)」と呼ばれ、そこで出会いがあり、愛が生まれた万葉の昔、そのいにしへに帰れとは言わないが、当時の人々のふところの深さや広さは見習いたい。その姿勢が世界の人々との調和には必要であろう。
池の中から現れる神様には本当に悪いが、斧の種類を増やしていただきたい。日本には3、5、7の数を好む文化もある。令和にかわる今年はぜひ5本は、おもちいただきたい。金銀銅アルミ鉄ではどうだろうか。それぞれの金属の特性を生かせば、木こりの副業が広がり、元手に事業を展開できそうである。異文化理解はあちこちにヒントがありそうだ。