前任校の生徒が亡くなった話を聞いた。両親の悲しみはいかばかりかとつらい悲しい気持ちになった。その子と親しくしていた生徒会のメンバ-の悲しみも大きいと話を聞くと、人の世の無情をしみじみと感じる。ましてや、15歳の生徒たちをわざわざこんな悲しみにあわなくてもよいのに…とも思う。人の世では、生まれてきたものには、出会うことは別れが必ずあるという定めがある。分かれたくないので、会わなければよいという考えも成り立つが、生まれた者にはそれは許されない。一生を通して、限りなく出会い、限りなく別れを経験することになる。
親しい人を亡くしたとき、人はどうやって立ち直るのか。あの時から私の時間は止まったままと言う言い方をするが、人の時間は止まることはない。なくなった人の時間は確かにそこで止まっているようだ。考えてみると、人としての時間は止まったとしても、生物としての時間は動いている。おなかはすくし、トイレにも行きたくなるし、不謹慎だが、おいしいものはおいしい。残された者は自らが死ぬまで生きて行かなくてはならない。それが、生きているもののル-ルである。だから、生物としての私の時間はけっしてとまることはない。そうやってだれもが生きてきた。
なくなった人の分まで生きる、それでよいと思う。なくなった人の分まで生きることも本当はできない。しかし、そんな気持ちでがんばることはできる。そうしてあげれば、自分の中でいつまでも生き続けることは確かだ。人はそうやって悲しみを乗り越え、悲しみまでも自分と同化していく。亡くなった人を忘れたとき、本当の意味での死がおとずれる。だれかの心に生き続けている限り、生きているといえる。また、何かの機会に思い出してもらえると生き返るともいえる。忘却こそ、「死」である。
死んだ人は☆になると言う話は、遠くにいって会えないことと同じだ。「木琴」という詩を思い出す人は多いはずだ。教科書に死を取り扱う教材を載せることも大切なことを感じる。よりよく生きるためには、死を考えることも大切だ。遠くに行ってあえない人より、近くの写真にある人が生きている感じがする。すぐに思い出せるし、夢にもちょこちょこ出て来る。この頃は、死生観も変わった「千の風になって」ならあまり寂しくはない。喪失感をどう受け止めるのかは千人なら千通りだ。残酷な言い方をすれば好き嫌いに関わらず、人はどちらかになる。生き残り生き続けるか。それとも死ぬのか。生きることは出会いと別れの繰り返しである。出会いの数だけ成長し、別れの数だけ豊かになる。悲しみを知るものはいっそう優しくなれる。
現在は神様からのブレゼントだが、このプレゼントは苦しみや涙なくしては受け取れないこともある。それが生死に関わる時ならなおさらだ。身近な死に遭遇すると、人は自分を引き裂かれそうに苦しむ。若い死は残酷だが、それでも受け入れざるを得ない。死を身近に見ない今、その衝撃は計り知れないのも事実だ。
それでも、若い人よ、あなたに、「友はいつまでも心に生き続けるのだよ」と言いたい。そして、がまんせずに泣くだけ泣いたら、あなたの時計をしっかりと持ち直して、これからの時間を生きてほしい。