妙円寺詣りの武者行例になぜか参加することになった。生徒がお世話になるということで、保存会の飲み方にあいさつに行った。ひょんなことからこうなった。60歳になり、体力は衰え、足腰はがたがたなのに、本当に悪乗りである。
そもそも、妙円寺が菩提寺である、この詣りの主人公、島津義弘公は関ヶ原の戦いのとき、すでに齢60をこえていたはずだ。九州管内の戦だけでなく、秀吉の朝鮮出兵にも参加し、「鬼島津」と恐れられた。84歳まで生き、戦場に出たのは60回をこえ、そのたびに生き残り、天寿を全うされた方である。強運と強靭な体力、精神力の持ち主に違いない。あごだけは鍛えている私とは大違いだ。(比べるのが間違い)
当日、神前に奏上される祭文は、公の功績を称えつつ、日置市の繁栄を祈るものになっている。厳粛な儀式に、鍛えてもいない、もち肌の自分が参加するのはおこがましい限りだ。60歳でも戦える義弘公を見習い、これを機会に少しは体力づくりも考えたいものだ。妙円寺詣りを育英館の伝統行事として位置づけられた先輩方の見識は素晴らしい。体力、気力を鍛えるのに最適な行事である。先人の苦労を偲び、自分を鍛える機会とする価値ある行事だ。この行事への取組の一つとして、妙円寺詣りの歌で歴史を紐解いてほしい。この歌は関ケ原の戦いをコンパクトにまとめている。
大垣城にこもり、敵を迎え撃つという当初の作戦は、関ヶ原での野戦に変更された。島津義弘公は夜襲をかけて敵の出鼻をくじくと献策するも受け入れられなかった。いよいよ、両軍が激突する。敵が打ち掛かれば応戦する覚悟で小池の陣営に待機する島津勢1000余名、その機会はなかなか来ない。それもそのはず、小早川秀秋の裏切りにより、西軍は総崩れとなっている。場所的に敵陣に最も近いところに布陣している島津勢である。今更、退却するわけにもいかない。退けば、当然、掃討戦になり全滅はまぬがれまい。敵はなだれうち、襲い掛かる。島津勢は「敵に背を見せるは卑怯なり」と敵中突破を試みる。チェストいけ。家康の本陣を突っ切って退却する。助ける味方の兵はすでになく、ただ島津勢だけが敵を相手に奮戦する形になった。多くの犠牲を出しながらも、死中に生を見出す。義弘公の身代わりと討ち死にする豊久、名だたる武将も次々に討ち死にする。乱戦をくぐりぬけ、義弘公を守り、泉州堺へたどり着いたのはわずかな兵であった。☆ざっくりまとめるとこんな感じの内容だ。
実にうまく話が歌に織り込まれている。悔しがった松平忠吉とか、敵将の井伊本田という人物名から、烏頭坂(うとう)等の地名も盛り込まれている。自然描写は季節感にあふれ、戦場ならではの惨状を語り、対句表現あり、古典的な言い回しなどなかなかの名文である。歴史満載、古文好きには応えられない歌である。
考えてみると、鎧武者を経験できる諸君はラッキ-である。なかなか経験できない。60歳の私もかぶとをもって歩いてみたが、重い。ただ歩くだけなのに、緊張感は半端ない。過去を体験することはできないはずだが、甲冑を身に着けてみると、何やら、一人前の武士になれるのではなかろうかと思ってしまう。鎧武者になった生徒たちに聞いてみたい。妙円寺詣りを終えたら、少し大人になれただろうか。何か変わっただろうか。