EQが教育界で取り上げられたのは、頭がよくても悪いことをする人がいるという話からだった。EQを調べているうちに、頭のよさと善い行いができるとは違うことがよくわかってきた。行動できたことを評価する手段として、「善行賞なるものが存在する」意味がよく分かる。「善い行いをする」を知識として教えても、実行するのには心のもち方が大きくかかわる。心が存在して初めてよいことができるといっても過言ではない。そのためには、よい行動を起こせる心を育てることが大切だ。
心を育てるために必要なことは何か。一つは形を作ること、知識として教え、簡単に動作として覚えさせる。お年寄りに席を譲るなどは分かりやすい。次に形を変えること。いろいろな場面で、お年寄りに席を譲ると同じ行動ができるのか。お年寄りが妊婦さんだったり、体の不自由な方だったりと、相手が違っても席を譲ることには変わりない。さらに思いやりの行動として、カバンをもってあげるとかである。
他人のものまねでなく、自主的に行動できなければ、本当に心が成長したとは言い難い。中島みゆきは「糸」という歌で「幸せ」を「仕合せ」とかけている。なかなかうまいたとえだ。もちろん、歌もうまいが…。これをまねして、糸に関わる話で、心の成長を説明したい。「しつけ糸」や「仮縫い」という言葉は、「躾」の本質を説明するのに好都合だ。本縫いができたら、しつけ糸は取り除く。躾はまさにしつけ糸を抜いて完成する。つまり、自分で自分の身を美しくすることができてこそ、完成である。いつまでも、しつけ糸があってはこまる。自主的な行動こそ、躾の完成形である。こういう説明に使えるので、漢字は実におもしろい。
さて、心はどんなに育つのかを考えるためにも、このEQは大切だった。その当時は、心の指数は大切だと言われたのに、いつのまにか学力向上に消されてしまった感がある。あのころの心の教育はどこにいったのか。育英館で育てようとする英才たちは、「学力」も「心」も必要だ。そこで、生徒たちには、生き方を考えさせる体験をさせることが大切だ考えている。その意味では全寮制での経験は貴重だったと思う。先輩のよさに学ぶチャンスが常にあり、それがあこがれになり、自分たちの伝統として定着していった。この全寮制のよさは共同生活をすることで培われたものだ。四六時中のつきあいだから、自分のわがままが通らず、他人と協力して生活しなければならない。その中で、自分の立場や役割は自然と身につけられた。そういう体験が少なくなった今、心を育てる感動的な話を含めて、多様な体験にふれあう場を設定したい。今こそ、心を育てる努力が求められている。
本年度の初任者研修で、電話応対が取り上げられた。ベルがなったら、3回以内にとる。相手の心がまえができる、こちらの心がまえとして、笑顔の表情をつくる、笑顔になると声まで変わる。それらを準備するための時間というわけだ。なんという思いやりの時間だ。こういうことに気付き、行動できる生徒を育てたい。英才と呼ばれる生徒たちには、「多様な思いやりの行動ができる」というレベルに、学校行事を通して、このEQを高めていきたい。