文化とは創るもの
今年も文化祭がやってくる。文化とは何か、毎回自問自答してしまう。令和6年現在の生徒たちの考える文化祭もその一つなのだろう。手前味噌だが、文化というきちんとした様式があり、それに合わせることが文化だと考えるのはおかしいと思う。もっと柔軟で発展的なものであると考えたい。
カラオケバトルという番組での点数で考えてみよう。上手な人、うまい人、 正確に歌える人が出場する。点数をあげるには正確に歌うことが基礎・基本である。「81点と91点のどちらがうまいのか」の質問には、当然91点がうまいである。ところが、本人が歌唱しても80点台というのがよくある。聴衆にはもちろん「うけ」ている。「ここで心をうつのはどちらか」と質問を変えると、カラオケの点数とは別に本人と答えることになる。譜面に書かれて、演奏されているものと本人歌唱との関係に気づく。音が外れるとか、演奏と合わないというレベルが雰囲気をこわさない限り、本人アレンジの世界があると評価してはどうだろうか。こぶしとか、ビブラ-トとかも、しゃくりとかである。
文化にもこれがあると考えられないだろうか。先人が提示したお手本がある。それは文化の一部ではあるが、すべてではない。その一部を学ぶうちに、学ぶ側に自分のオリジナルが出てくる。いや、それが出てくるまで、徹底してお手本に近づくべきなのである。新しいものの創造と考えると、近づくことは遠ざかることでもある。文化の誕生の構造もよく似ているのではと考えてしまう。
鹿児島を「文化の果てる地」と謙遜する言い方がある。もちろん、東京や京都という日本文化の代表値を基準に考えるとそうかもしれない。しかし、鹿児島の地理的な位置を考えれば考えるほど、代表値の文化と異質なものの存在を考えてしまう。琉球弧や大陸からの情報を仕入れ、日本の代表値に近づけながら発展すると、実に多様な文化が形成されることになる。鹿児島の文化には、
海洋国家を形成していた先人の発想があるといっても過言でない。その証拠に、鹿児島には異質の文化と出会う素地が形成されていた。鑑真上陸、キリスト教や鉄砲伝来はまさに海を渡ってきた異質の文化との遭遇である。
さて、これからどんな文化を創造していくのかを考える時、海洋国家を夢見た我々が海を使わない手はない。水資源確保、海流発電、海水分解からの鉱物資源などは、少し手間はかかるが、ほぼ無尽蔵のものがまわりにある。これを使わない手はない。ここまで話が大きくなったのでひとまず収束しよう。文化とは常に納得解を求めるもの、立ち止まってはならないものである。~なるように努力するものである。生徒たちは文化祭で何を追究して、どんな納得解を手にするのだろうか。文化は常に若者によって創られる。自分を変えようと努力をする教師は、変わりたい生徒の応援団となり、とことん変えようと努力する若者たちにつきあってほしい。