耕運とは
「縁は異なもの味なもの」「運は良し悪し」という、これらの言葉を聞くと人間の力がおよばない不思議な出会いや巡り合わせを感じることがある。
家庭教育学級の講師として呼ばれるのをいいことに、ちゃっかり、育英館の宣伝もしている。今回も西陵中からの依頼に応えて、1時間程度の講演をさせてもらった。もちろん、リ-フレットも配って…。その後に、校長室前の廊下で、見知らぬ保護者に声をかけられてびっくりした。
「先生は5年くらい前に小学校でお話しされた方ですよね」と彼女は校長室に入るやいなや語り出した。これはまずいことを言ったのを覚えていたのか、でも笑顔でフレンドリ-なお母さんだよな…。「私、先生のファンです。今日来られると聞いて楽しみにしていました。講演を聞けて良かった。」と笑いながら感想を語る。「今日もとても楽しかったです。」とお母さん、「いやいや、調子に乗って語りましたね」という私、自称ファンクラブのママは「楽しかったし、おもしろかったし、ためになりました。期待通りでしたよ。これはお礼です。」と、本当にうれしそうにチョコレ-トをプレゼントしてくれた。
彼女が去った後、「どおりで反応がよいお母さんでしたよ。」「リピ-タ-じゃないですか。」「どこでだれが見ているかわかりませんね。」と校長に笑いながら、いじられた。まあ、今日の話も受けたようだし、悪いわけじゃないからと思いながら、5年前はどんな話をしたのかは気になった。もちろん、保護者に子どもさんをよく見てほしいとか、ほめてくださいという話をしたはずだ。そして、子育ては学校と協力することが大切と語っているとは思う。しかし、5年間も覚えていて、おもしろいからまた聞こうという行動には驚きの一言である。
こちらにとっては、何十回の一度きりの話である。しかし、聞く人からすると本当に一度っきりの話である。その意味では、授業と同じで、貴重な1時間だと精一杯やることが大切なのだろう。運や縁は自然とそうなるのでなく、全力でその場を生きることで作られていくもののようだ。だから、今後も「耕す」で臨みたい。運も縁も人として耕し続けなければならない。今回のめぐり逢いから、主体的に人に関わる重要さを感じた。異なもの味なものや良し悪しと決めつけてはならない。運や縁の継続、発展こそが「耕す」なのである。せっかくの運も縁も待っていては意味がない。「自ら運命を開拓せよ」と高校時代に唱和した五条目。その前には「積極敢為」の四文字があった。人との関りを自ら求める行動を「耕運」と書いてみて、わかったような気がしてきた。
5年前の西陵小での講演の評価を改めていただいた気がする。教育の評価は未来に出会う生徒の姿となって現れるという。お母さんはバッグから「きばっど2」を取り出した。続きを読みたいそうだ。早速、送るとしよう。この「耕運」も添えて