同窓会での正解とは
欠席を予定していた同窓会になんとか出席した。コロナのおかげで4年ぶりの全体同窓会である。欠席のつもりで出した事前メッセ-ジが見事に打ち間違えられていた。国語の教師の文章なのに、「盛会」が「正解」になった。おかげで、教え子から(国語の教師なのにという顔で)、「同窓会の正解って何ですか?」と聞かれた。「おお気づいたか?さすが」と前置きして、「同時代を生きた友人や先生から、現在の悩みについての答えを聞くこと」と偉そうに答えておいた。
ここで、時間は平等に流れると感じた話をしたい。青少年研修センタ-の講堂で「鹿児島県公立中学校教諭に任ずる」辞令をもらった。そして、8年前、退職の時には県庁の教育委員会室で「免ずる」辞令をもらった。となりに並んだのは38年を同じ教師で過ごした仲間である。顔を見ながら、年取ったなあと感慨深かった。同窓会でも同じ体験をする。49歳の教え子は中学生として出会ってから、35年くらいの付き合いになる。向こうがこちらを追い越すわけでもなく、こちらが向こうに近づくわけでもない。時間の経過は事実として存在する。年齢の差は縮まらないが、実に面白い心理的な距離感が漂うのは間違いない。
変換ミスのおかげで素晴らしい問題ができたので、さらに正解を探ることにしたい。同窓会で会うのは同級生と相場が決まっている。もちろん、恩師と呼ばれる先生にも再会する。冒頭の答えに基づくと、自分が受けた教育についての疑問もこの時とばかりに聞いてみるのもよいだろう。叱り方も稚拙だったと思う私については若気の××と勘弁してもらいたい。熱量はあるが、技術のない悲しさ、暴走して先輩に諭されたり、生徒には迷惑をかけたりと申し訳なかった。考えると、昭和の教師は何かと「過ぎていた」ようだ。教育も時代とともに変わっていくものだから、あの時代限定と許してもらうしかないようだ。
今年49歳になる教え子も、彼らなりに「教育」に悩んでいるようだ。話の中には会社の新人教育も出てくる。管理職の教え子はガラスのハ-トをもつ新人にほとほとこまっているようだ。まわりのベテランの忖度が多すぎるのも困るらしい。「あれはダメダメ、これはこれダケですよ。でないとやめますよ」と口をそろえる。質も量も加減しないとすぐやめると先輩たちが気をつかっているからおかしい。現場教育はなかなか難しく、みんなが腫れ物に触るつもりでやっていると真剣に語る。確かに現在の若者は叱られることになれていないから、ちょっと注意すると、心が折れるようだ。子育ての話題もあった。コロナのおかげで、「毎日学校へ行く」を無理にさせられない。また、たまに登校すると、学習進度差が広がりすぎて、一人の先生では生徒への対応ができないようだ。シン・落ちこぼれが出現している。解決したかどうかはさておいて、語る中で、いろいろな「正解」を考えることにはなったようだ。