スマホの時間
フェィスブックを眺めると、アップした人の人生を生きている錯覚に襲われる。本当にいろいろな人生の存在に驚く。そこでの価値観は作成者に依存しており、その中での社会と言えるだろう。文学作品の研究などで話題になる視点論を思い出す。スマホに存在するのは、まさにすべてをお見通しの「神の視点」である。だから、文章と写真で構成される話題はすべておつくり、アップした人の世界だと考えてよい。実にわかりやすく作られた世界である。
スマホなら居ながらにして他人のやることが実によくわかる。もちろん、投稿者は自分の生活を切り取り、お友達や見せたい人に提示している。その一部を体験させてもらっている。当たり前だが、いろいろな投稿を見れば、同時間にいくつも世界が錯綜している。本来なら、野球の応援席にいるはずが、ちゃっかりと美術展を鑑賞できる。さらに、食べたものに限らず、写真を見せられると有名店グルメに同席した気になる。似たような自分の体験があれば、この切り取られた時間をかなりの精度で復元できる。お膳立ての見事さから感覚的には体験したといってもよい。アップされた動画でその場に存在していないのに、リアルに人の死や事件を知りうるのはびっくりだが、ショックも大きい。
転勤がある仕事なら、いろんな場所で時間を過ごす。あれほど親しく時間を共有した仲間も転勤してしまうと、なかなか時間を共有できない。もちろん生徒もそうである。卒業してから時間を共有することなどなかなかあるものでない。ラインやフェィスブックでつながると、時間を共有しているかの錯覚に陥る。スマホ上ではそうでも、実際はまったく別の時間が流れている。これが行き過ぎると、つながり続けたいスマホ依存になる。
考えてみると、スマホは罪な関係を作り出した。自然消滅もありうる一期一会がよいこともある。関係性はすべて維持するのでなく、ある程度維持できればよい。人は器用に出会う全ての人とつきあえない。関係性の休眠も必要なのだ。関係維持を死守しようと常に意思疎通をもとめるとおかしくなる。「既読」はつながっているという思い込みだ。「スル-」は関係性の否定だと信じてしまう。自分を棚に上げて人からされると不安でたまらない。怒りさえ覚えてしまう。自分の立ち位置が他人との関係性だけで決まることがそもそも問題なのである。人がどうこう言おうと、あなたはあなた、自分は自分なのである。関係性維持は時には煩わしくもある。人間は感情の動物だからいつでもつながっているとつかれてしまう。一人になる瞬間や場所は心の安定を取り戻すのに必要なのだ。神の視点で知った気になると、関係性の薄れを自覚してしまう。必要とされていないと考え、心の負担になる。逆に期待されていないと考えると楽になる。既読スル-もお互いさまと疲れない関係ではいけないのだろうか。