自分化することの大切さ
「主体的な学習」が話題にされたが、新しい言葉が出てくるといつのまにかわからなくなった。自分で学ぶことの難しさは今も昔もかわらない。昔より自分でやれることが少なくなった今、体験よりも安全を優先した結果である。たくましさや冒険心が不足し、何事にもチャレンジしにくくなった。子どもを守ることを勘違いしたり、多様性の名にかくれて甘やかしたりが横行してしまった。子どもらしく挑戦できないうちに大きくなり、「待ち」はできても自分からができない大人だらけになった。テレビも第3者視点(文学的には神の視点)を数多く学習させたため、一人称で生きることを忘れさせてしまった。神の視点だから、あらすじはもちろん、登場人物の心情までわかる。こうなると、自分の視点が揺らぎ、登場人物と同一化してしまう。漫画やアニメの主人公へのあこがれならよいのだが、ドラマの主人公になり、そのままコピ-しようとすると破綻する。虚構で完結するドラマと割り切れない。そのコピ-は現実世界では実現は不可能なのだ。けっして、それは自分化できる世界ではない。
源氏物語などで主語が省略されるのは、使われる動詞や助動詞などで、だれなのかがわかるからである。「主語を省略する」表現は、主語がわかりきっている世界が存在するからだ。しかし、現実世界では主語が明確になると責任が出てくる。つまり、世界が自分化されると、自分の責任を全うすることにもなる。責任のない空想世界に存在する悪人は、いくら格好よくてもとうてい肯定できるものではない。そういう主語になろうとすることは、実に危険である。
無責任な肯定や批判であふれるSNS投稿も責任の所在が明確でない。言いたい放題を自分に向けた話と考えたら怖くてしかたない。投稿は匿名というのがおかしい。自分の人生に匿名はない。すべて自分がすることで自分に返ってくるものだ。よいことも悪いことも「情けは人のためならず」と語るのでなく、無財七施のレベルで語ろう。見返りははじめから求めないことが前提なのだ。
主語を自分で物語を書き直す実践では、よくわからない部分はある。行動としてはわかるが、動機が不明。つまり、人は考えていることと違う行動をすることがある。また、行動の結果が予想したことと全然違うこともある。しかし、出てきた結果は主語の自分が受け入れなければならない。人生をどうとらえるかは、すべて自分のものとすれば、+でも-でも受け入れられる。「降る日 照る日 足る日」である。幸福も自分化してこそ語れる。他人と比べているうちは基準が揺らぎすぎて、ちっとも幸福になれない。運命なるものを受け入れて、それを変えていこう。この世界の主語は自分と割り切って生きることだ。そんな強さを人間は生まれつきもっている。多くの人がここは自分化する、ここは逃げないところだ、みんなそうやって見事に生きてきたと付け加えておきたい。