心の扉に取っ手はない
国立女子教護院の院長の話である。
「先生、わしらのことで毎日大変やろ、お子さん連れて時には遊びに行ってきな。あとは自分らでなんとかやるよ。」お言葉に甘えて、子どもを連れて久しぶりに外に出る。信頼しながらも留守が気になる。しかし、こういうときに事件が起こることはまずない。非行を重ねて、全国からここまできた生徒たちである。自分からやる気になれば必ず責任はもつ。こんなふうに心の扉は内側から開かないことを知ったという話だ。さて、この逆はどうだろうか。「みんなおとなしくしていなさい。先生は明日、家族と遊園地に行ってくる。」では、「先生はいいなあ。自分だけ楽しんで‥」となるに違いない。
文化祭の準備で、生徒たちと放課後遅くまで残り、学年主任の先生にしこたま叱られた。この学年主任はなんの因果か、中学校の時の担任、しかり方も半端なく、担任は面目まるつぶれ、文化祭の展示に熱が入り、生徒とともに時間を忘れた若き日の想い出である。あたりがすっかり暗くなった校門をいっしょに出る時、「先生ありがとう。学年主任にしかられるまでいっしょに残ってくれて‥」と励ましてくれた。先日の30年ぶりの再会で、「あのときの先生の「あつい」は伝わりました。今も好きな先生の一人です。」と語ってくれた。
内側から扉をあけるのは扉の外を一緒に走ってくれる先生がいる。扉の外で一緒に飛び上がって喜んでくれる友がいる。扉の外で一緒に泣いてくれる親がいる。それを扉の内側で自分が確かに感じ取った「時」である。師弟同行のよさは、「為すことによって(互いに)学ぶ」だが、心の扉をノックすることなのかもしれない。人間の熱(思い)はそうやって伝わる。教師が寄り添うことの意味を考えるチャンスだ。年輩の先生が生徒ともにマラソンを走る。汗だくで足下もおぼつかない。この先生に生徒は「先生、無理しないで、休みなよ」と声をかける。本気で励まされているし、シリをたたかれてもいる。この温かさがよい。望むならこんな関係になりたいものだ。子どもの心にある扉は本当に不思議、無理に開けようとすればかたくなに閉まる。心の扉に取っ手はない一度閉まれば、内から開くのを待つしかない。この院長の話を聞けば、扉は内開きに違いないと思える。心が通えば、扉は自然と開くものなのだろう。
ドラエモンのどこでもドアやすずめの戸締まりで注目されたドアの話である。日本家屋には長いことドアがなかった。西洋との出会いがドアをもたらし、家屋にいくつものプライベ-トな空間ができ、別の空気が存在する。これ以降、自然と互いの心にもドアを作ることになったのかも知れない。「心のドアをノックしないで」は基本、日本的ではない。ドアなしの歴史が長いので、内と外の空間を使い分ける習慣がないからだ。コロナで心の距離が開いてしまった現在、ドアをなくすことにチャレンジしてみたい。