置かれた所で咲くには?
「前向きな生き方を肯定したい」との思いから出てきた格言は実に多い。そして、植物や動物のひたすら生きる姿からヒントを得て、人間こそこのように生きるべきとしたものがある。「置かれたところで咲く」は ノートルダム清心学園理事長の渡邊和子さんの言葉である。ところで「置かれたところで咲きなさい」といわれたら、あなたはどう咲きますか?「咲く」には何が必要かと考えると、栄養、空気、水だと思い当たる。これが人間では何にあたるのかと考えてみる。それを確保しないのでは、けっして咲くことはできない。勝手に花は咲かないし、咲くには咲くなりの必然性がある。
名言やことわざは、方向を決め、意欲を高めるのに効果的だ。しかし、一歩踏み込んで考えると、「課題」としては実に漠然としている。一般化、抽象化された言葉だから、自分の課題として設定し直すことが大切だ。似た言葉でイメ-ジを拡げてみよう。「随所に主となる」こちらは禅の言葉だが、どこにいっても自分らしくあること、そうすれば自分を見失うことなく行動できるという話だ。自分の視点をしっかりもつことの大切さを教えている。「置かれたところで咲く」は、自分を見失わないという視点も忘れずに、自己変革という本人の問題での解決も図りたい。咲くには置かれた場所をよく知り、そこでの栄養を吸収して、根をはり、やっと咲くことかできる。「根をはれない」のは人間関係の形成ができないことだ。人間関係は努力しないと継続できない。古くなったり、傷んだりした根ではとうてい支えられない。草木が茂るのには同じだけの根が地下に必要とされる。当たり前だが、見えていないだけにこの根の重要性をなかなか実感できない。与えられた所で咲くには本当はやるべきことが多い。次に栄養の話だが、中学校の技術で窒素・リン酸・カリと肥料の三要素をならった。調合されて効率よく与えられるとよいが、置かれた所では、自前で栄養をとる必要がある。待っていては全然足りない。葉緑素一杯の葉の作り方とか、効率的な水分の吸い上げ方、維管束点検のハウツウなんて、植物だったら読むのだろうか。水、日光や空気こそ、その場に必要なもの、これは自分でなく、まわりの環境である。どうすれば、日が当たり、水や空気が十分あるところになるのかは、環境とうまくつきあい、神の手で動かしてもらうしかない。
それには、「陰徳を積む」で神様を味方につける工夫をしても、環境の改善は、本人の心の持ち方と行動が反映する部分なのだ。人との関わりがなくては、咲くことはなかなか厳しい。ここで「頼まれごとは試されごと」の行動原理が納得できる。信頼を得て、周りからの必要性を認められない人は咲けないのだ。置かれたところを自分の場所にできるかどうかは本人次第である。「咲きなさい」は、努力しなさいと置き換えられそうだ。