きばっど 初心に返るなら? R3.12.25
一年のまとめの時期になると、いろいろな場面を思い出しては、あれでよかったのかと反省してしまう。教師1年生に比べれば、経験値は上がっているだろう。しかし、一人の教師として、生徒を育てるという観点での判断としてどうだったのかとすっきりしない。一人の人間の人生に関わる仕事だから、答えがなかなか出せないこともすっきりしない原因の一つだと思い直している。
教師は熱量の仕事だと思う。さて、この熱を保つにはどうすればよいのだろう。熱の元になる教師になろうと思った始まりに返ることだ。そこで自分のスタ-トをどこにするかが問題になる。これを考える手がかりとして、「初任校は?」である。始まりにこだわるのは、ここでの3年間で教師人生が決定づけられるといっても過言ではないからだ。教師としての立ち方、位置が決まる。その人の出身地と言ってもよいだろう。たぶん、熱源もここにある。
ある芸人が自分の原点として浅草をあげるように、教師にとってのそれは初任校なのかも知れない。そこでは、授業方法を習ったというより、人との接し方の基本を教えられたような気がする。近頃はやりの「一儲けならぬ人儲け」なのである。そこでは、教師人生を豊かにするための出会いが無数にあったはずだ。その中で、先輩にあこがれ、教師としてどうなりたい、どうありたいと若き日の自分がもがいたことを思い出す人も多いはずだ。
いろいろな職場をまわると、自然と人間としての幅は広がる。「本気で掘らないと水脈に当たらない」のたとえどおり、場面によっては大変な思いをする学校も必要だ。勉強だ。そして、その課題から逃げないことである。ぎりぎりで向き合う時に、ある先輩は「命まではとられないから心配するな」とよく語ってくれた。進退に関わるつらい決定を告げる時は、「仕事だとわりきりなさい」と励まされた。「時が解決する場面もある」と教えられたこともよい思い出だ。
働き方改革もよいが、本気で掘らないといけない時には、時間も何もあったものではない。仕事も人間的成長の一つになると思う。よき教師は心に火をつけるというが、自分が燃えないと火はつかない。火をつけようとすれば、よほど自分を燃やすか。相手を燃えやすくするかといろいろと考えてしまう。
退職校長の友人が同窓会で「先生の授業が好きで国語も好きになりました。」と当時の生徒に言われたと語り、「うれしいですよね。教師冥利につきる。」と満面の笑顔になる。初任校では「よき教師は火をつけた」を考えるゆとりもなかった。火をつけるのは、一人じゃ無理な気がする。やはり、仲間の教師との連携プレ-だった。仲間と協力して知らぬうちに生徒の心に火をつけた。それならだれかの手柄でも良いと思った。熱い思いがみんなにあれば、生徒も燃えるに決まっている。生徒指導で大変だった40年前の初任校の熱さが今でもなつかしい。