きばっど キセキの人 R3.11.29
「教育かごしま」を分解して、先輩方の書かれた文章を切り抜いて読んでいる。学校経営で悩まれた、研究授業がうまい、厳しい指導で有名、大変な時に励ましてもらったなど、人生の節目で出会った多くの先輩方を思い出す。当時の文章を改めて読み返しているが、校長在職中やその前後で書かれたものが多い。割り当てられた文字数で、いろいろな思いをもって綴られたであろう文章には感動する。題名はもちろん、内容まで、珠玉の名作揃いだ。「現職が読めばいろいろと役立つだろうに…」と思いながら、この楽しみを独り占めしている。
膨大な量なので、独断と偏見で勝手に分類している。「鹿児島の教育史」という論文を書く人が出てきたら、これは昭和、平成、令和の鹿児島の教師たちが何を考え、どう取り組んだかを知る貴重な資料になるに違いない。ぜひ、そういう研究者を期待したいものだ。文章を読みながら、今はもう会えない人に出くわす。書きぶりや言葉遣いに当時を思い出す。ここにある言葉はその時代を生きた証でもある。これらの文章こそ文化遺産になりうるし、そうすべきだ。ネット上になんでもある現在だからこそ、何もなかった時代のよさも知ってほしい。学校や地域への呼びかけ、職員との語りや児童生徒とのやりとりなどが生き生きと書かれている。この話を詳しく聞きたいと思っても、もう会えない先輩諸氏だけに寂しさで胸がつまる。読むことで感謝の気持ちを添えたい。
校長室に歴代の校長の写真が飾られている。2~3代前ならわかるが、その前はどんな人かはわからない。学校沿革を読んでもなかなかピンと来ない。写真に毎朝挨拶をする、恥じない学校経営を誓うとか、現職の朝のル-テンを聞くと、それはそれでよいと思う。しかし、どういう時代で、学校には何があったのか、その時の課題をどう解決したのかを調べてみたい。写真の人を知る試みである。そのためには学校に校長の書かれた文章こそ残しておくべきだ。
やがて、経営を補助するAIも出てくるだろうし、「今日はあの写真の校長が助言をされます」という話も夢でない。膨大なデ-タに基づいて写真の人が語られるヒントになる話も鵜呑みにしないで、自分なりに咀嚼して活用したい。
学校経営の問題には、答えは無数にあるが、完全な正解はない。確実な方法で解決するも、根治をめざして取り組む時も覚悟も必要だ。しかし、「今」を考えられる自分のバランス感覚だけは大事にしたい。決断の影響が大きいのであれば、偏るのは実によくない。ましてやメンツに流されてはいけない。校長室で一人考える時、先達の名言とシンクロしてくれば、よい判断が近そうだ。AI校長も役立つだろうが、忘れられない言葉を新たな意味づけで見直したい。言葉のリサイクルやリユ-スとして、感謝の意味も含めて「キセキの人の言葉には今でも世話になっている。」と表現したい。まだまだ現役の方もいらっしゃるので、キセキの人としておこう。