きばっど 新しい旅の形 一つの提案 R3.11.12
コロナのおかげで、空想して旅に出る機会が増えた。これを空想徘徊の旅とよんでいる。「村上水軍の娘」を読み、大三島から播磨灘、淡路島、そして、大坂という古い時代の大阪の海岸まで旅することにした。地図を片手に小説を読むスタイルでこの旅はスタ-トする。もちろん、ネット検索で立ち止まりながら妄想を拡げては、新しい知識と出会う。旅の気分に浸れるので実に楽しい。
コロナ前はロケハンオタクを自称し、そこで多くの映画の舞台になった「尾道」という場所にあこがれた。5年ほど前に新幹線で福山まで行き、在来線に乗り換えて実際に降り立った。ここは「時をかける少女」「さびしんぼう」の舞台である。その近くにはポニョの舞台と言われる鞆の浦など、映画好きなら一度はその地に立ってみたくなる地域である。また、尾道は文人たちの愛した町でもある。鹿児島とも縁のある林芙美子の文学碑も有名である。駅から商店街、海と平行にしばらく歩いて坂を上ると、お寺があちこちに見える。二人しか乗れないかわいいロープーウェイで山頂へ、書き出し「海が見える」の芙美子の碑は視界が開ける岩場に突き出すように建てられている。そこに立つとちょうど足元に尾道の町が広がる。左遠くを望むと、瀬戸内の島々までも見渡せる。「花の命は短くて」の碑にも、ここの碑も一人でも生きる女性の潔さを感じさせる。人生は自分が思うより悪くないのだろうか。どうにでもして生きる、生られる人生にふれるようで大好きだ。空想徘徊で実際に旅行した5年前の続きが始まり、どこまでが本当でどこからが空想かわからなくなってくるから楽しい。
人生100年時代、学校で習ったものは、60を過ぎるとそろそろ学び直しが必要となる。この知識修正には、「加えて獲得する」でいきたい。一度訪れた土地をさらに知ろうと調べることだ。経験に基づく自分の思いとの実体験との違いに感動することだ。情報量が半端でない現代は限りなく体験に近いものを手にできる。もちろん、風や匂いは無理でも、視覚的にはかなり近いものがある。 以前、「日本三大がっかり観光地」が流行したが、空想徘徊の旅では、がっかりするような場所はない。札幌の時計台は、時計台の歴史やその中に展示してあるもの、そして、外観と、どれをとっても感動の連続である。時を知らせる役目だけでなく、札幌の町にあり、それぞれの時代でいろいろな役目を果たしてきた。生徒の学びの場、住民サービスの拠点、図書館など、また、時計部分の仕組みは、おもりが下りていく力で時を刻むように作られている。つまり、時を知らせるためには、どの時代でもだれかがあらかじめおもりを巻き戻す必要があった。人の手で「時」が生み出されていた。これを知るだけでも感動だ。この時計は世界中に親戚がある。残念ながら、バックトウザフューチャーの時計台は親戚ではないが、重要な役目を果たしている点は同じだ。石原裕次郎が見上げる夕暮れの時計台、恋の町札幌の曲が流れてくる。空想全開。