作業は無言でするがよい。作業はみんなでするがよい。みんなでするなら先輩後輩でするがよい。育英館の伝統である縦割りの作業は、お互いが切磋琢磨する「いもこじ」とよばれる形そのものだ。作業は心を磨く行為でもある。
「清掃の十徳」の話や掃除で悟りを開く話など、作業が人間形成に与える影響は計り知れない。シュリハンドクというお釈迦様の弟子は、他の者に比べると特段優れたものはなかった。それを知っていたお釈迦様は彼にひたすら掃除をすることを行とするように語った。作業をよくよく考えてみると、単調であるが奥が深い。なにしろ、きれいにするにはその場所がどうあることが一番よいのかを考えるし、どんな道具でどれくらいやれるのかも考える。それから彼はいかにきれいに掃除をするかをひたすら追求した。そして、悟りを開いた
作業には心を清める効果がある。手が汚れると心はきれいになる。きれいにしたいと思う気持ちが手を動かし、チリを集め、汚い所をふき取る。そうすると、手も雑巾も汚れる。もちろん、雑巾はきれいに洗えば問題はない。作業の時間が進めば、進むほど、心はきれいにしたいと思う。熱心に取り組むので手もずいぶんと汚れるに違いない。ここをこうしたい、あそこもこうしたいと無心にそれだけを追求すれば、雑念は入らず、収集して悟りも開けそうだ。
この作業を伝統にしている学校は多い。ただし、作業の仕方を教える学校は少ない。家の掃除は掃除機が主流で、学校はほうきである。家にはルンバもいる。もちろん、玄関掃除に、校長室、多目的室に音楽室とシュリハンドクではないが、場所によって用具もいろいろだ。だから、シユリハンドク並みにがんばれば、まちがいなく、お掃除のプロにはなれるだろう。生徒たちで話し合って作業の仕方を作り、今日の作業の手順を確認しあう。その流れをくりかえし、月一程度で評価して改善すれば、作業のレベルはめきめき上がるに違いない。 外国では清掃をなりわいにする人がいることから、学校の掃除はない国もある。日本は違う。日本文化は自己完結型である。自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。サッカ-のサポ-タ-が応援の場所をきれいに片づけて去る姿が取り上げられた。自分たちが応援した場所は自分たちで片づける。これが日本人の当たり前である。しかし、日本人は他人のところまでは片づけない。だれも見ていなければ、ここで終わりだ。ところが、他人の目を気にする文化なので、報道されるとまわりまでも片付ける。そう考えると、同じ片づける行為でも場所によってちがう気持ちでかたづけている。日本人の清掃にむける思いを考えると、半端ないことに気付く。永平寺の階段はよい例だ。僧たちの何百年にもわたる拭き掃除は、堅い杉板の階段さえも見た目にわかるように中央がへこんでいる。掃除への思いがものの形までも変えてしまっている。縦割り無言作業は、立派な修行である。