令和でインディ
今年も終わる高校入試、自分が受験生だったころと大きく様変わりしていると感じる。センタ-試験もはるか昔、共通テストと呼ばれるようになった。情報なんて科目も出現、どこまで変わっているかもなかなか見通せない。でも、鹿大が昔のまま試験会場であるのが不思議だ。ズ-ムとかラインとかいうなら、コンビニや自宅でも受験できてもよいのではないか?今年の受験生はインタビュ-で、「暗記は終わった、思考力、考える力を問う問題がほとんどだ。」と語っていた。そうか、それならなおのこと、場所にこだわらない。時間にこだわらない。不在者投票みたいな試験も有りなのでは?と考えてしまう。閑話休題
「みんな違ってみんないい」という多様性を認める社会を理想としながら、なぜか寛容さを失い、互いを責める構造をもっている令和である。本当に心安らかに暮らせはしないと感じている。ちょっとした発言が○○ハラとされる世の中は、相手への思いやりも声や行動にできない。ハラ認定は、それは感じ方次第だからだ。発語が受け取り手の価値判断に任されることがどんなに危険かということだ。相手の理解力がレベルとか、心理状態はどうなのかなどを考慮した発言を準備するとすれば、毎回下書きをして、ヒアを受ける議会答弁みたいなものになる。「くちびる寒し」どころではなく、「瞬間冷凍」あるの世界だ。
日本の文化は家族的で、一人一人の距離感が近い。組織の役職さえ、親、子、孫と置き換えられる。だから、終身で働いてもよかった。それがなくなり、正しい距離感はお互いが決めるものとなってきた。へたにつめれば一発で○○ハラである。失敗の許されない世界だ。地雷だらけの世の中を生きるためには、踏まないか、行かないかである。感情面で強い人は踏んでも大丈夫だろうが…最初から不適切昭和と決めつけられた私などは、準備されている地雷の感度も密度も違うようである。簡単に言えば、昭和的発言はチョ-危険。空気を読み、発言にも細心(最新?)の注意をしたい。言葉の意味も違っている。不特定多数とのつきあいにはこの地雷は無数にあると心したい。また、今まで身内と思い込んで発言すれば、ドカンである。一歩間違えば?の世界だから、インディ化しなくてはならない。踏んだら暴走トロッコ、操縦不能の飛行機にのる覚悟を決めたい。どうにか生き残る手立てを考えたい。令和で生き残る秘訣は、ピンチさえも楽しむ、インディのような冒険好きになることだろう。
いろいろな植生を観察できる屋久島が頭に浮かぶ。ゆるい昭和は海岸近くで限りなく熱く、平成は中腹の温帯的雰囲気で、緑も豊か、年中強い風が吹き荒れ植物もまばらな令和と思えてくる。屋久島にはくれぐれも失礼だが…暴走トロッコはこの高低差を駆け抜けていく。止めようにもとまらない。芥川の「トロッコ」と同じでどこまでも走り続ける。インディをとなりに、昭和製帽子だけは飛ばされないようにがんばりたい。