コロナ卵から恐竜が生まれた
コロナ時代の副産物は、「わがまま、距離感をうまくとれない、生きることはどうすればよいかわからない」である。3年間にわたる学校の惨状はひどいものだ。行事がつぶされ、集会がなくなり、唯一、個人のわがままが許容された。中学校3年間がこの時期にあたった生徒たちの未来に不安が募る。
規律ある生活にもどれない、集中力がないので易きに流れる、心の距離をうまくとれない、学習効果を阻害する要因だらけ、中学校で育つ心が欠落している。この時代の中を生きた児童、生徒はどんな人生を送るのだろう。人との距離が開きすぎて、「競争する 努力する 悔しがる がんばる」の経験をうまくできていない。ましてや、ライバルをリスペクトするなんて気持ちもない。
いろいろな場面で、心の成長がうまくなされていないと感じてしまう。心の距離感は行事を通して培われる。一つの行事を成功させる中で、葛藤、後悔というマイナス、やりとげた感、感動というプラスイメ-ジを経験できる。それは、人としての成長や心の成長であり、心の距離をうまくつかむ経験でもある。「思いは見えないが、思いやりは態度で示せる」を学ぶ大切な経験である。
考えてみると、心の距離をうまくとれないのは当たり前、あの3年間は「密をさける」と教えられた。相手を思いやるどころか、距離をおくのが当たり前となった。今更、相手に応じて言葉遣い、態度を変えていく変えることはできない。努力なしでは、人間関係を構築もできず、破壊したりしてしまう。発言力、声の大きい者が場を牛耳る、その声よりさらに大きな者が出てくると、今までの様子とがらりと変わり、しっぽをまいて逃げ出す。まるで弱肉強食の恐竜の世界だ。大声を出す、嬌声をあげる生徒が出てくると、どこから見てもジュラッシクパ-ク。ジュラッシクパ-ク化が進まないことを祈るばかりだ。
教師もコロナ時代ですっかり変化してしまった。生徒に面と向かって注意できない。「うっせえ うっせえ」でなく「わかんない 通じない」で反応される。世代間格差も深刻になり、注意している言葉が生徒に理解されないのでは?と感じる。「みんな違ってみんな良い」と教えられているので、何がわるいのかが分からない。共同生活では、いつ、どこ、なんでも「違ってよい」では困るし、大いに迷惑である。言葉の魔力はおそろしい。みすずさんに同情してしまう。
心の距離感が取りにくい今、お互いに気をつかいながら語ると、共通理解も難しい。一枚板での生徒指導は昔の夢である。これが進むと、懐かしい?スク-ルウォ-ズの頃になるだろう。生徒に何も言えない教師は、授業もどんどん乱れて、ある日、突然、後ろからパクリと食べられる。学校の「揃えよう教育」機能が低下すれば、多くが善良な市民を前提としていた日本のシステムはダウン。安全な社会維持が困難になる。恐竜に「揃えよう」はムリだ。おお怖い。