幸せになる方法
「辛いの字を見るともう少しで幸せになれる」と星野富弘さんの言葉にある。幸せに一本足りない「辛い」の文字は幸せになる方法を考えるのにふさわしい漢字でなのかもしれない。プロポ-ズの言葉で「僕が君を幸せにするから」と男性から女性に言うのは昭和時代の話で、先日、見たドラマでも、このセリフを男性が言うと、「ううん、私があなたを幸せにしてあげる」と女性が逆プロポ-ズしていた。まさに、令和らしい。この発想から考えると、幸せになるには、幸せにしようと思う人を見つけることのようだ。
教師という職業はまさにぴったりの仕事である。仕事を通して、幸せをつくる片棒をかつぐのだからこれ以上のことはない。時には、生徒を幸せにするつもりで自分が幸せにされていることもある。教師の仕事の半分は神様から給料をもらっていると言われるのもそのあたりにあるようだ。部活動の顧問をしている時に、土、日もなく指導をして、ここぞという所で敗退してしまう。「くそっ、こんなところで…」と思いつつ、生徒たちの顔を見ると泪、泪、泪である。一番悔しいのは試合をやっていた彼ら、彼女らなのである。「泣くな、勝つまでやるぞ。先生もつきあうからな」とすらっと言ってしまい、がんばったものだ。
人と関わる仕事には、幸せつくりの要素がある。大人は泪も流さず、笑顔も見せず…だが、きっと心は動いている。自分のことを他人が思ってくれていると感じた瞬間はきっと幸せである。照れ隠しのように「そこまでしなくてもいいのに」と言うに違いない。そこまでやる人もまた幸せなのである。
よく考えてみると、世の中すべてが他人のためにやる仕事である。顔が見える仕事もあればそうでないものもある。どちらがどうと言えない。朝起きて、顔を洗う。歯磨きをする。一連の流れの中に、水が流れるのはだれかが作った上水道と浄水場できれいになった水が必要だし、歯ブラシも歯磨き粉もタオルもだれが作ってくれたものである。こちらの笑顔は見えないだろうが、一連の動作が終わり、幸せな気持ちで今日もスタ-トできる。感謝の一言だ。
教師のような感情労働はよくも悪くも結果がすぐに見えることがある。その意味でやりがいは半端ない。直接、幸せな気持ちに触れられる。労働の結果としての製品を間にすると、その反応を肌で感じることはなかなかない。しかし、ありがたいと思う消費者がほとんどだ。どれ一つなくても不便なはずだから。
便利さから考えると、現在置かれた環境は実にすばらしい。幸せである。龍安寺にあるつくばいに「吾唯(ただ)足を知る」と「口」を真ん中に配置された格言がデザインされている。幸せは心の持ち方次第で、今の幸せに気づき、満足することも大切だ。相手を幸せにしたいも同じことだ。自分が幸せになる近道だからである。そうなると、幸せは自分が感じるものであり、比べてわかるようなものではないようだ。