教えて させて ほめても
簡単そうな学校美化の仕事は実は奥が深い。小学校でアサガオを育てた経験はだれしもあるだろう。学校で育てる花はけっこう丈夫なものが多い。しかし、その花をきれいに咲かせるのはやはり難しい。昭和後半、校長が学校美化を率先して行うのが流行した。その前に流行した校内暴力を乗り越えようとした時期だ。割れ窓理論が世の中に行き渡り、壊されてもそれに負けないように美化しようと学校全体で取り組んだ。行政の生徒指導担当セクションから学校へ強い働きかけもあったのだろう。
麦わら帽子に作業服、軍手に移植ごてと校長らしからぬ姿があちこちに見られた。学校訪問すると、まず、この方に声をかけられたものだ。不審者対応もかねて、校長は大忙しだった。学校には花が咲き乱れ、花壇があちこちに作られた。生徒指導問題もやがて下火になった。確かに校長をはじめ、先生方がやれば花はきれいに咲き、効率的である。しかし、この体験を生徒にさせない手はない。「生徒にさせてはどうだろう」とこのごろ花咲じいも後継者育成を考えた。山本五十六さんではないが、「やってみせ、させてみて、ほめて……」と教えた。花カラ摘みで、「枯れたものと今咲いている花を切り取りなさい」と言葉で教えて、実際、目の前で切ってみせた。次に生徒たちにさせて、切り方をチェックした。ほぼ大丈夫と考えて、30分間の仕事として、やらせてみた。3日経過して、花壇を見て愕然とした。花が咲かない株が複数もある。蕾を真ん中から切断している。これでは、花を咲かせるための手入れが逆効果になっている。仕事を教えることの難しさを体感した。
次は水かけの話である。これもただ水をかければよいのではない。花と花の隙間を利用して、それぞれの根元にかけるように教えた。ひしゃくの量を満タンでなく、8分目くらいで横からそっとかけるともっと具体的に指導すべきだった。結果、水を花の上から注ぎ落として、花が傷んでしまっている。できることと成果をあげることは違う。長い間、教師をして今頃分かったかと言われそうだが、なるほど、生徒はそれぞれ違う。「みんなわかった」かも、「みんなできたか」も、あるところまでわかり、できている。あるところの基準が集団や時代によって違うのだろう。とりあえず、花を育てたことのない生徒たちには、もう少し丁寧に具体的に教えないとできないようだ。仕事には意味や手順があり、それを確実に実施するなら、自分に合うやり方を見つけさせることだ。花カラ摘みも全体を見て、切る部分を考えてから切り始める。水かけなら、量やかけ方を工夫する植物や成長段階もあると考える。すべてこの行為がなぜ必要なのかを自分自身に問うことだ。できないことを生徒のせいにしてはいないだろうか。いつかどこかで学ぶのでなく、今ここで学ぶチャンスを保障したい。