生徒の何を見るか
形あるものは壊れるというが、空気のようになじんだものの調子が悪くなるとどうにもならない。4月が始まってから、不機嫌ですぐ暴走するPCとおつきあいした。現在は、修理してもらい、借りてきたネコのようなPCにすっかり安心して向き合っている。
ところで、令和の教師に必要なのは「生徒を見る目だ」とある本に書いてあった。この話は昭和でも同じだったと思う。若かりし頃、「生徒の何を見るか?」とか「見えたらどうするのか?」と先輩に聞かれた。ヤングマンだったので、バカな質問だと簡単に応えた。何を見るかは「実態ですね」と言えば、先輩は「それだけか」とまた聞き返した。「意欲や学習スタイルですかね」とダメだしで応えた。すると、どうやって見るのかと聞き返す。めんどくさい先輩だった。とどのつまり、「とにかく、生徒をよく見なさい」と指導したかったようだ。先輩にはその方法までもっと聞きたかったが、肝腎なそのあたりはもう覚えていない。聞いたのか、覚えてないのか、聞かぬも言わぬも花だったのだろうか。
生徒の見方を整理してみたい。まずは大きく見ること、鳥瞰図的である。表現がおおげさ過ぎれば、丸ごとである。朝から晩までの一日の時間尺で見てほしい。その間に見せるいろんな様子を丸ごと見てほしい。次にマクロ的によさを探してみるのはどうだろうか。よく見ると、「路傍の名もなき花(知らないだけ)にも美しさがある」と新たな発見に驚くこともしばしばだ。見つけようとしないだけで、長所もかなりある。よさとつきあうとはよく言ったものだ。担任としては、「普通の状態」はしっかりと知っておきたい。日常の表情や行動、言葉遣いなどである。これがないと生徒が変わった時に気づかない、気づけない担任になる。これでは、何が起こっても不思議でない。「教師は五者たれ」の易者のような予知する能力が必要だと思う。
さて、暴走PCも修理が完了した。ハ-ドを変えたらサクサク動き出した。「やる気がでるなあ」と思わずつぶやいた。あのイライラはなんだったのだろうか。日常の様子を知っているから、調子が悪いとこちらまでイライラになる。生徒とのつきあいも同じだろう。気持ちが見る目を変えるのも確かだ。よい所を探しながらつきあうと決めたら、こちらも安定した気持ちになるに違いない。
次に、見えてきたらどうするかの話である。「支援」とまではいかなくでも声かけはしておきたい。カゼをひいたら温めることだ。厳しく指導しても冷たくはいけない。怒らないで叱ることだ。「どちらもよくなってほしい」という教師の願いからの働きかけだ。生徒に応じて、温める時には心のハグまでお願いしたい。温かい言葉がハグなのだ。ホ-ムシックになる子にも、親に代わり、見守る教師や寮監長がいることを理解させれば、心も温まり、自然とよくなるはずだ。