授業の達人をめざして
若い時は、授業を力まかせでやっていた。とにかく、教材研究したことをたくさん教えたいと思った。しかし、生徒の興味・関心は持続するものでなく、集中にも限界がある。そこで、こちらもおもしろい話を随所に入れて授業する。こちらが調子にのり脱線しすぎて、時間が足りなくなる。生徒はおもしろい、楽しいと言ってくれたが、授業としてはいかがなものだったのだろうか。教科書を全部教える先生にはなれなかったのは間違いない。
文法や漢字練習は始めると、とたんに食いつきが悪くなった。5段活用は階段の絵を描き、リズムを取りながら、授業をした。ウ段の上を使うから上一段、下を使うから下一段と教えた。おもしろおかしく教えたら定着はまあまあだった。「文法知識は解釈に活かせる」を体感させることが重要なのだ。松田聖子の「風立ちぬ」をちゃっかり使い、「ぬ」は完了の助動詞だとさんざん教えた。欲張って、堀辰雄まで行き、「生きめやも」でまたわからなくなった思い出がある。
漢字だって同じだ。同じ「笑」でも、冷笑、憫笑、哄笑とある。これらが取り上げられる「走れメロス」のディオニス王とのやりとりを思い出してみると、よく分かる。漢字の違いが人物像を明確にし、場面の状況理解を助ける。文法や漢字を学ぶ意味はここにある。こんな教師だから、発達段階を無視して教材のおもしろさを追究させたくなり、時間が足りなくなる。教師の活躍はほどほどにしないと、生徒の学びは深まらない。生徒をよく見て、授業することだ。
生徒に問う力をつければ、興味、関心は高まると考えた。ひととおり、授業して何を考えたいかを発表させてみる。一読後、どんなことに疑問をもったかと問いかけて、その疑問を解決する授業をやるようになった。例えば「大きな株はなぜだんだん大きくなるのか」を考える授業だ。当然、生徒は自分がやりたいことをやるから、楽しく一生懸命やっている。授業も盛り上がるし、話し合いも活発だ。ところが、定期テストになるとさっぱりできない。若い頃はこれだけ生徒が楽しく一生懸命考える学習だから、当然、力もつくと思っていた。しかたなく、面白くもない教科書ワ-クもせっせとやらせて、どうにか学年平均をキ-プした。ところが、1年も後半になると、点数をとれる生徒が増えてきた。今思えば、評価基準がおかしかった。問題解決授業は一斉授業と違う力をつけていた。新しいやり型を古い基準で計っても、正しい評価にはならなかったようだ。テストの作り方を変えたら、たぶん、力を明確にできただろう。
生徒が授業を進め、最後に教師が補足する方法も試した。中学生にゼミ形式で授業をさせる。問題を生徒が解き、説明、さらに意見交換する。教師の出番がなかなかこなかった。実におもしろかった。問う力が高まれば、読みの深まりも違ってくる。模範的な解答はあるが、実に多彩な別解もあることに気づかされた。