働くのは幸せのため
働き方改革ではなく働き甲斐であるとよく語ってきた。仕事をしなくても生活保護や社会福祉で生きていける時代である。スマホだってもてるし、食べるのにはこまらないようだ。それなのにわざわざ仕事をしようとする人がいるのはなぜだろう。お金ではない何かがそこにあるはずだ。
なぜ働くのかを考えるとき、よく引用されるの「他を楽にするのが働くである。」というフレ-ズである。つまり、人の役にたっているという自覚があるかどうかが大事である。人の役に立つ仕事をやっていると思えると、働く意欲が自然と出てくる。これは働き方ではなく働き甲斐の問題だ。そこにある「幸せ」の話だといってよいだろう。
同じように必要感である。「あなたがいてくれてよかった。」「あなたのおかげでできた。」と言われた時、必要とされるは社会的な認証であり、自分という人間が生きている価値にもつながる。他人が自分を必要としていると考えると、これに応えたいと仕事をがんばるのも当然だ。
そして、ほめられること。「いい仕事だね。」「いい作品だ。」「ここまで、成績をあげたのはすばらしい」どれもが肯定的な評価である。その人の存在を肯定する人がいる。この肯定感が高まると、次への仕事への意欲が自然とわく。仕事がやる気のある人を育てていく。そんなサイクルがあるのだろう。
何より、大事なのは所属感があること、そこに自分の居場所があることだ。人から愛されている実感である。つまり、いくつかの顔をもちながら、社会生活を送っている。場所によって顔を使い分けても、所属できる場所は限られている。その中で自分を受け入れてくれる場所の一つになっていることが肝心だ。我々に居場所をあたえてくれるのも仕事である。その意味で、先生でいられる場所は学校である。学校という仕事場で、生徒を教え導くから先生である。そこから一歩外に出るとただの人である。飲み屋で「先生、先生」と呼び合う集団は他人から違和感をもたれるのはそのためだ。
幸せの尺度は個々に違うのだが、4つの幸せは仕事や働くという活動から見出すことができる。その意味では働き甲斐改革は仕事を愛することが大切なのだろう。学園のスロ-ガン「勤労を愛す」は、「働く」を通して、幸せを手にする方法を述べているように感じる。この職場で、この立場で働くことができる幸せ、縁あってこの立場にある幸せを我々一人一人が忘れずに生徒に向かいたい。それは自分の幸せにもつながる。後姿の教育として、教師として幸せに生きる姿を見せていこう。生徒のために熱意をもって取り組むと自然と自分の幸せにつながる。これからも、先生と呼ばれるために、常に学び続ける存在でありたい。