オーバ-ライト
柳田さんの「道の島」を改めて読み返し、「オ-バ-ライト」というキ-ワ-ドが刺さった。(近頃の表現‥印象に残る)。文化や文明にはこのオ-バ-ライトが必ずつきものである。便利な道具や概念、政治的、宗教的規制などに起因する行動により、従来のものが置き換えられてしまう。これが広範囲、ある時間継続すると、文化は様変わり、文明が滅ぶこともあると考えられる。
スマホという道具は、ある意味、通信、伝達の方法をことごとく、オ-バ-ライトした。土の中から出てくる木簡は形を止めたが、手紙という伝達手段は、紙のように消滅しかねない。中国なら、この文字はテッシュそのものである。日本では遠隔地との意思疎通のため、作り出された道具だ。日本文化特有の思いやりを支えるのもこの手紙だろう。思いを伝える紙と書いて、「てがみ」と読みたいものだ。手紙からスマホと置き換えられ、手紙での通信手段は消滅していく。そして、その残骸が、形を変えて言葉の中に残ることになるのだろうか。
言葉は長い時間で変わるが、スマホの機能拡大から考えると、5年、10年で変わる。それよりは遅いが、私たちの頭もかなりのスピ-ドでオ-バ-ライトが進んでいるようだ。わかっていてももう戻れない。ライトされたら、復活はできない。戻してもみてもそこには存在しない。この恐ろしさはきっと行き過ぎたら戻る所がないことにあるのかもしれない。いったん世の中のベクトルがそちらをむくと,何もかもがオ-バ-ライトされていく。「スピ-ドは控えめに」では行けないのだろうか。取り残されるという危惧は捨てても大丈夫だ。250年にわたる鎖国での文化の熟成こそが急速な近代化を可能にしたのだ。
物語や民話、あるいは言い伝えの中に昔のものが残っていると、柳田さんは具体例をあげて「道の島」で語る。そして、人間の営み次第で特産物は宝にも成るし、まったく見向きもされないと書く。まさに、宝までもが人に作り出されたと語る。民俗学のおもしろさ、ここに極まれりだ。それにしても、竜宮城と乙姫を考える部分は興味津々だ。乙姫のお父様は後付けで龍神ということになっているが、ほとんど姿を現さない。やはり、ニライカナイという海の向こうにある桃源郷のイメ-ジがベ-スにあるのだろう。そうすると、お父様の存在は後付けにしかならなかったのだ。太郎がお父様に叱られたり、脅されてはこの話はだいなしだ。それでも竜宮に住んでいるになったのは、漢文の素養のある人物によるものだ。この部分だけが後世のオ-バ-ライトなのだろうか。平安時代は仏教の影響で、だれもが西方浄土にあこがれたが、飛鳥時代の聖徳太子は「日出ずる国」と自慢げに書き出して親書を随に送った。稲作の民としての日本古来の考えなら、太陽の出る方角がポイントになるはずだからこう書いた?この「自慢げ」のオ-バ-ライトの痕跡を太子の時代に探ってみると面白そうだ。