昔アヒルは…
「昔 アヒルは体が大きくて海も渡れば空も飛べたよ」という歌があった。昔と今を比較する歌である。この歌の内容を考えると、いろいろな思いがわいてくる。若さと老いの対比もあるだろうし、昔はよかったというノスタルジ-の側面も考えられる。自由度という言葉を考えると、今はいろんなものに縛られすぎることになっていないか。
スマホにアプリを入れ、カ-ドはポイントで操作され、チャ-ジされたり、課金されたり、便利になったことは認めるが、なんか窮屈な思いがするのは私がデジタル難民だからだろうか。「案内状が面倒ですので、次からはアプリで連絡をします。」令和の時代はなんでもかんでもこれで片が付く。
人間だから、空を飛べたり、海を渡れないのはわかる。でも、自由があった。もちろん、短時間で移動できることのすばらしさはよくわかっているつもりだ。
いろいろな刺激を感じ取り、それを自分化するには時間を必要とする。人間が視覚から入力した情報を整理して、行動を起こすのに支障のないスピ-ドは30キロ程度である。それ以上のスピ-ドでは、処理しきれないままに移動していくことになる。「車窓からごらんください」の40キロ以上は無意味なのかも知れない。人間らしく生きるにはスピ-ドを落とすことも大事だろう。路傍の花や石に感動しても良いのではないか。朝ドラは植物学者の牧の先生を主人公に好調なようだ。小さな感動の積み重ねがとんでもない大きなものを生み出していく。自分化するには、時間的余裕が必要なのはすべてのことだ。体験の裏付けのない発明は、人間で試すことになる。スマホやゲ-ム機は壊れないが、それに夢中になる人間は壊れていくらしい。朝ドラの牧の先生も「夜の研究は少し控えてちゃんと床に寝てくださいね。あなたの健康が心配です」という妻の言葉を素直に従うところはほほえましい。
ところで、この歌はボヘミア民謡で正確には「海も渡れば魚も食べたよ」である。そして、激しい急流に躊躇して岸辺で暮らしていると、体も足も縮んで、人に飼い慣らされることになったと歌われている。題名は「気のいいアヒル」で後半はランラララ ランラララのフレ-ズのくりかえしである。明るい歌詞をあれこれと考えるのは悪いクセだろうか。私たちも気のいいアヒルで同様、とうとうブタ小屋に入れられてもなんとも思わず、ランラランラランララになってはいないだろうか。足腰が弱るのは、コロナ禍だけではあるまい。本当にすべてが都合良く、自分でやらなくても…が多い。アヒルはそうやって変わっていった。「気のいい」というのは皮肉である。この先、大きな河も山もなくなる訳ではない。温暖化を含めた地球規模のリスクに対応するためには、やはり、「○も渡れば○○も食べる」でなくてはならない。ここらで考え直さないと、ランラララでは終われない。