青いフォトグラフ
「若い希望も夢もある 私は東京のバスガ-ル」とか、「こよなく晴れた青空を‥」と、昭和30年代生まれの生徒たちは、バスガイドの歌声に酔いしれた? ついでにエチケット袋にお世話になった。ウイスキ-を酔い止めに飲まされた同級生もいた。この時代のバスはなぜかしらよく揺れたと記憶している。半世紀昔の修学旅行話はつい昨日のようにできるのはなぜなのだろうか。
この「修学旅行」が死語になるのも時間の問題なのだろう。現在の勤務校では、研修旅行だと訂正されてきた。このネ-ミングには目的をはっきりさせての意味合いが強いのだろうか。教員なりたてのころは「修学旅行」が楽しくてしかたなかった。係になり、行き先やお弁当、写真撮影の場所やバスの配置図など、旅の企画に旅行会社と知恵を出し合って、わくわくして当日を迎えた。
高校は中学の修学旅行との違いが鮮明だ。コ-ス選択だったり、目的地での実習だったりと意味合いがまず違う。全寮制男子高校からスタートした本校では、日本アルプス登頂を実施するなど、「鍛える」が大きな目標だったと聞く。少人数精鋭で実施される本校の旅行は、基本的に修学旅行とは異質なものなのだろうか。多感な中学生は友人とのつきあいが学校生活の大きな割合をしめる。当然、旅先で新しい友情を育む修学旅行での思い出は重要なものだ。旅行自体が、全部が新しい自分や友人と出会う体験なのだ。記録でなく、記憶になる。
青いフォトグラフという歌があるように、写真の中に青春の思い出がつまるのが昭和だった。今時の若者も手間のかかる写真に新しさを見出している。さて、目に映る大量な情報を残す意味はなんだろうか。若いこの時期の写真はまさに青いフォトである。仕事についてからそれと基本的に色が違う。どんなに美しくとれてもこの青にはかてない。青いフォトがとれる旅こそ修学旅行だ。
意図的な体験も成長にかかせないが、個人的には平和、未来、歴史とくくる中学校の修学旅行が好きだ。なかなか寝付けないふとんの中で、好きな異性の話をする。むずむずしたエネルギ-を発散するために枕投げになる。どちらも「見つからなかった」では、話はおもしろくない。お約束通り、見回りの先生に見つかり、正座させられたり、立たされたり…としっかりと記憶されていく。これらは不思議と、昼間に見学した観光地と同じくらいの鮮明さで残っている。
研修旅行でもいろいろな場面が印象に残っている。広大な北の大地での農業体験で、牛の出産に立ち会い、甘いピーマンやダチョウの卵を食べ、清澄な空気の朝に出会う。TDLでは、パレ-ドを見るため、アトラクションのはしごで駆け回る。青のエネルギ-はぜいたくで、一途だ。一途なものは美しい。今年も旅行の季節がやってくる。青いフォトグラフが一枚でも紛れ込んでほしい。何十年後かに笑いながら見るこの一枚はなかなか貴重なものだ。