信じて待つ
学校に無理な要求をする親に共通するのは、子供とうまく向き合えないところである。どうすればよいかわからないから、それを学校にぶつける。その前に子供とよく話せば、解決することが多い。また、子供の話を聞かずに自分で解釈する、話し足りない子供の語りを中断し、代弁する。これらがもっとも迷惑な親だ。よけいな解釈、代弁、大きなお世話である。本音が伝わらない。
先日、急死された保護者の家へ弔問にいった。なつかしい中学時代の話になり、不登校になった弟のために相談を受けた一件を思い出した。いろいろと励ましたが、けっきょくは不登校になった。当時、保護者があせらないのにびっくりしたのも覚えている。「お宅の家族なら大丈夫」といわれたからと当時の謎解きがあった。今は亡き父親に関係する話であった。カウンセラ-との面談で重い口をやっと開く息子、その後ろで父親はそのやりとりをただうなずきながら何も言わずに聞いていた。子供を部屋から外に出して、父親とむきあうカウンセラ-は、「お宅は大丈夫ですよ」と確信したように言った。カウンセラ-に信頼された父親を母親が知ったのは、ずいぶん後の話である。
親と子供がどこかでつながるのは、当たり前、それを信じて待つ、語ればそれでよい。この家族にはそういう日常があると確信したのだろう。このお父さんは「こどもに勉強しなさい」ということは一切なかった。「好きなことをやりなさい」と語り、人には聞かれたら、だれにでも、岩石や星の話をしていた。母親が「もう少し、子供たちにもその知識を教えたら」と語ると、「聞かれたら語るけど、聞かれないからね」と笑っていた。夏休みの自由研究でこまっていた我が子に、「なんでも自由研究になる」と教え、庭の片隅にはえる雑草の研究を提案したそうだ。1メ-トル四方の中にどんな野草があるかを調べる。「研究する」の基本を実に簡単に教えた話を聞かせてもらった。本当の学者さんだ。1隅をあげて3隅を知るには、興味・関心の高まりが必要なことを知っていた。すばらしい人だった。知れば知るほど、本物の知の獲得について考えてしまう。「聞かれたら教える」こそ、教育である。聞かないものを教えてもしかたない。確かに必要があれば人は求めるものだ。求めるものを与える教育がいかに大切か。教師なら、聞かれたら求める分だけは返せる力をつけておきたい。
いろいろな親がいる。欠点を意識してつきあいを狭めるより、保護者のよさを知り、自分も助けてもらおう。今更だが、このお父さんともう少しお話しておくべきだった。小さな子の疑問であれ、聞かれたら相手にわかってもらえる答えを準備できる教師でありたい。自問自答する場面から、新たな課題を見つけるまで、後ろでじっと聞いている教師でありたい。なぜか「信じる」も「教える」もよく似ている。教える側にこそ「信じて待つ」が大切なのだろう。