きばっど この空の下ですから R4.2.25
「それじゃまた」というあいさつは、「俺たちの旅」という青春ドラマでおぼえた一節である。エンディグに流れるテ-マ曲にある、さりげなく、温かみを感じるフレーズである。「夢の途中」には、「さようならは別れの言葉でなく、再び会うまでの遠い約束」とある。この曲が使われた映画の結末を考えると、人生は別れと出会いのくりかえしという意味だろうか。そう考えると、「さようなら」というこの遠い約束を果たせるかどうかは、神のみぞ知る話である。
教師の仕事を何年やっても、卒業式での別れにはなかなか慣れない。親よりも濃い時間を共有した生徒と卒業式を境に会うことが突然なくなる。教師はある意味、毎年学校に取り残される。学校を転勤し、年月が経つと、一度も会わない生徒が実に多いことにも驚く。たぶん、生徒同士もそうなのだろう。転勤が多い職場なら、どんなに慣れ親しんだ景色も違うものに見えてしまう。
いつか会いたいと思えば、会えるはずと思い直してみた。「またきっと会えますよ、この空の下ですから」と言ってみよう。「この空の下ですから」というだけでよい。次の再会までに同じように時は流れ、まったく違ういろいろな体験をするだろう。しかし、同じ空の下でのこと、次に会って大いに語ることを楽しみにしよう。そんな別れができれば最高だ。会えたらいいし、会えなくてもいい。この空の下のどこかで、友人もあなたと同じように泣いたり笑ったりしながら、人生を生きていると分かればなんだか元気になりそうだ。
主人公のまわりにいる人物に焦点をあてるアナザ-ドラマがはやっている。物語に厚みをつける手法だが、もう一つの物語として成立するからおもしろい。また、人気キャラの過去や未来を描く手法もなかなかよい。若い人でも楽しめるのはBTFである。シリーズ123を見ると時間の流れの豊かさ、おもしろさに出会う。時間はすべての人に平等に過ぎる。自分だけが年をとることはない。みんな若い時期があり、みんな年取っていく。いかつい顔のおじさんにも幼稚園時代のお遊戯があり、スタイル抜群のモデルさんの未来に介護施設での歩行訓練の時間がある。BTFを見ると、そんなふうに時間は存在するのだと思う。
もう一度、「会いたい」の話になるが、恋愛は遠距離だと成就しないようだが、友情は遠くてもよさそうだ。孔子が「朋有遠方より来る」を楽しいと表現したのは、この朋の質にもよる。同じ趣味や志は時間や距離を超えるのだろう。「それじゃまた」と言える朋に違ない。孔子の時代は今より再会が難しかったことだろう。そんな中で「同じ志の朋に会えるのは実に貴重である」の彼の言葉には共感する。どんなに離れても「この空の下ですから」と考えると、会える気になるから不思議だ。平等に流れていく時間だからこそ、きっちりと区切ることはない。きっと会えるはず。 それじゃまた