きばっど 時間を削り出す R3.12.5
時間について考えさせられた話です。箱根駅伝で有名な青学では、区間の記録を伸ばすために、時間を「削り出す」努力をするそうです。そして、自分の役目を果たしてタスキをつなぐ。時間というものは、「削り出してこそ活かせる」という哲学です。この「削り出す」に触発されて、似たような話を取り上げてみます。夏目漱石「夢十夜」からの抜粋です。
よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。(中略)すると、さっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。
この話のキ-ワードは「眉や鼻が木の中に埋まっている」です。それを槌の力で掘り出すことができる名人運慶の話です。青学の時間を削り出す作業とこれはよく似ていると思います。見た目は、彫刻と駅伝なので共通点はないように感じますが、どちらもよく言われる神が降りてくる瞬間に違いありません。この「掘り出す、削り出す」は絵や彫刻だけでなく、音楽も含めたあらゆる創造的な活動に言えることです。駅伝を主体的に走ろうとすれば、タイムの中にある活かせる時間を削り出すことも可能になるのでしょう。
運慶はこういうものが彫りたいと思い、手を動かしたのではなく、そうせざるを得ないギリギリのところだったのです。結果としてそれが彫刻になった。駅伝ではタイムを縮めることになる。問題の核心は全てその人間の中にあるのです。だから、カウンセラーや教師は、その人間の気づきを助けることしかできません。その人間の中に埋もれている何かを外へ引き出すこと。それにつきるのです。もちろん、本人にも教師にもまだ見えていません。それでもそちらへ少しずつ移動していこうとする人間の力(努力)が必ずあるはずです。
運慶の場合は、それが鑿を持つ自在な手であり、青学の場合は足なのです。自分たちに何があるのか。それを気づかせてくれる人が存在するのかどうか。いつの間にか時は過ぎていきます。歳月の流れは確かに早い。その怖さに打ち勝ちながら、それでも埋もれた何かと戦うことになるのでしょうか。こう考えると、極限ぎりぎりこそがこの「掘り出す」行為につながります。まさに、何秒かの削り出しも同じぎりぎりです。どちらも神と出会う瞬間を考えさせる本当にいい話です。「全力で取り組む極限」の話であり、ぎりぎりなのです。