ある校長から「研究の方向を職員に提案したら反対された」と聞いた。校長がテ-マを押しつけたのかなと短絡的に考えた。しかし、この校長の人柄からそんなことはないはずだ。もう少し詳しく聞いてみた。「どんな研究も成果が出ないとだめ。子供が本当に必要としていることを追究し、それをテ-マにがんばってみようか」と語り、先生たちから提案してほしいと話したようだ。「現実から出発すればよいし、生徒の力もつけられる」楽しい研究になりそうとわくわくしそうだ。ところが、「上から言われたとおりにやれば文句を言われることがないし、やりやすい」との返事があったようだ。聞けば聞くだけ驚いた。
だれもが暗い夜道は走りたくない。街灯で照らされた道なら行く先もわかるし、楽である。人が作ったコ-スを、環境も整った道を考えもせず走る。本当にこれでよいのか。「一灯を頼め」は見えない所が見えてくるからよいのである。いつもは見逃すものがくっきりと見える。一灯を頼んでほしい。おきまりの走りでは見えない大切なものを見てほしい。研究のあり方について、校長が提示された姿勢に賛成である。教師は5者であれという中に「学者」という項目がある。自分の教える教科については、少なくとも学者を目指したい。もちろん、時間をかけて研究する時間的な制限はあるだろうが、その教科の内容を年齢に応じてどう教えるかは日々の研究課題である。内容は簡単でも教え方は難しい。そして、自分自身で学べるように生徒を育てるのであれば、さらにハ-ドルは高い。毎日、それを考えて生活しているのが先生である。教え方のプロは学びのプロでなければならない。自分の教科ならと教える側の自負が必要である。
国語の先生なら知っているはず‥と言われても、守備範囲は広いので知らないこともたまにある。ただし、国語に興味・関心を持ち続けることは負けていない。生徒に教える時は、そこのところを大事にしたい。漢字や語句の成り立語句、文法知識はどう役立つか、言葉の意味は今までどう変わってきたのか、変わっていくのかなど、古典から現代、そして未来までも「国語」を語りたい。教科の歴史を語る先生であってほしい。中学校の先生の一番の役割はその教科を好きにすることだ。興味をもたせること、入り口に立たせることだ。自分が好きであることも大切だが、そうしむける技も必要だ。あれもこれもより、自分の一灯を頼むのがよさそうだ。しかし、自分の一灯が不安なときはまわりをよく見てみると、それぞれを照らす多くの明かりがあることにも気づく。 一灯を頼むと覚悟を決めれば、自然と見えてくることもある。浮かぶ瀬や仏にも出会うこともある、歩きだそう。そうすれば自然と道は開けてくるし、どうにかできるものだ。暗い夜道でしか見つけられないものもある。これでいいのかと迷うだけでなく、たまには、自分の一灯の中にだけ浮かび上がる美しい星や森の木々を楽しむのも悪くない。