学校は子供の心身の自立を援ける場であり、その生命の可能性に対する畏敬を欠くと教育は成立しない。生徒には敬語を使う必要はないが、呼び捨てや命令するのは古いだろう。「可能性」に対しての敬意は払うべきである。将来、日本や世界を救う一人になるかもしれないからである。そのためといって何だが、自己決定できる自主性こそは育てるべきである。逃げないで自分の力で決められる人間に育てたい。自己決定に人生をかけられる肚を育てていきたい。シンプルであるが、正しいと信じることを自分で選べる人間に育ってほしい。
本校は「英才を育てる」学校である。校名の由来としてそのことを語っている。英才は「なりたい自分」の志をもつ。「天才は努力で生まれ、英才は目標で育つ」である。目標や努力をなくしては、才能もちながら発揮することができない。世の中の役に立つことが目標で、世の中に認められてこそ英才である。
水面下での努力が天才を生む。優雅に水面を進む白鳥には水面下での水かきの努力があることはいろいろな話に取り上げられる。努力とはなかなか目に見えない。トビウオが優雅に空中を滑空するためには、水面下で70キロ以上というスピ-ドで助走(助泳?)しなければならない。トビウオに聞けば、きっと「天才とは努力」というだろう。さて、英才とは?。天才との違いは自らを育てるところだ。目標を掲げると、自分に必要な力が見えてくる。その力を身につけようと努力するのが英才である。目標も自分でなく、他者を助けたり、社会に貢献したりという側面をもつ。考えるに同じ努力でも少し違ってきそうだ。
受験期は人生における努力の尊さを教える大切な機会でもある。なぜなら、この時期は人生においてもっとも向上心が強い。この時期こそ、努力の尊さを教えなければならない。思い返すと、学校で学んだことは記憶に残らなくても、自分が努力した経験は鮮明に残る。勉強方法、心がまえこそが本当の財産だ。そして、若いうちの苦労を買ったり、鉄を熱いうちに打ったりの話は、結果や成果でなく、人間の成長、その後の生き方に関わる、そう考えると納得できる。 運や偶然に結果を求めると、それだけを期待して努力しない。チャンスは偶然にやってきそうだが、実のところ、そうではない。自分に準備があればこそ、奇跡的なチャンスに恵まれる。好機はすべての人に訪れるが、それをうまく活用する人は少ない。ギリシャの作家ソフォクレス「好機はあらゆる努力の最上の船長なり」と言っている。彼は準備こそが大切だと知っていた。「志を立てることは大いに高くすべし 小にして低ければ、小成に安んじて成就しがたし。天下第一等の人とならんと平生志すべし」英才を意識した貝原益軒の言葉は実に重い。「人間は2つの目と1つの舌をもって生まれてきた。それはしゃべるよりも2倍よく現実を見るためである。」自分の志は何かと問い続け、現実をよりよく見ようとすれば、英才となるべく「高きをめざす」ことになるはずだ。