「褒める」・「叱る」には「人を伸ばすとか、育てる」という目的がある。相手の存在を肯定し、意欲を喚起し、成長を促すものである。これらは、薩摩剣士隼人の剣に似ている。彼の愛刀「無刃剣・十字丸」は、相手を叩きのめすのではなく、魂をぶつけあってわかり合う為にと刃がついていない。
「褒めるは前進への促しであり、叱るは挽回への励ましである」のとおり、何もなければ失うものはない。何かあると考えるから、叱る。失う前の状態に本人が戻るための働きかけの「叱る」はある。人はあることに対して苦手、下手というが、自分自身が気づいていない。そのために一時的に閉じ込められたり、チャンスを失ったりしている。本人が元の状態にもどれば、当然できることである。伸びる力、挽回する力の存在を信じているから、褒めたり叱ったりするのである。成長力や回復力は人によって遅いや速いがある。だからと言って、見切りをつけてはいけない。「挽回」には遅れているものを取り戻すという意味も含まれている。人を伸ばす、育てるには時間が必要であり、辛抱強さが要求される。一度や二度でうまくいくことはない。後継者を育てるためには、「褒める」も「叱る」もその意味を理解して、しっかりと身に着けておきたい。
ところが、育てたい、伸ばすという目的をもたずに、ただ叱るのはこまる。そんなキャラに遭遇すると、叱られた記憶が心の傷として残る。叱ることの退対局を意識したい。叱るのは励ましで有り、期待であると分かれば、叱られた方の対応はずいぶん違う。温かさと厳しさのバランスこそが肝心である。「5つ教えて3つ褒め、2つ叱ってよき人にせよ」と教えた二宮尊徳の名言にはうなづいてしまう。まずはしっかりと教えること、情報の入力は大切だ。その入力したものが、正しく動くかどうかも見極めたい。育てるためには相手をよく見て正しい評価をすることが必要と行っている。大目に見るとか、仏の顔も三度までとか、叱ることを留保する技術も必要なようだ。これは、育てるという観点や可能性を伸ばすという観点だ。
おいしいごはんは最終段階が大切だ。熱がしっかりと釜の中を循環する必要がある。失敗を受け止め、反省しているようなら、今回は許そうと叱責を控える上司であれば、部下は育つに違いない。二宮さんが3つ叱る、2つ褒めるとわざわざ数字をあげて諭したのも分かる。子育てでも生徒指導でもついつい叱ることが多い。それをあえて、しかることを少なく、褒めることを多くと注意したところに人間性が出ている。愛情をもって育てるための割合がよくわかる、まさに6と4である。多くの人が子育てにかかわると、この6と4の割合に近づくのかもしれない。じいじの言葉、パパの言葉、先生の言葉など、成長に関わる多くの人の言葉のシャワ-があわさって健全な成長へとつながるのだろう。 いまさらだが、忘れられない一言や行動があるのが、ありがたい。