0にはものを入れられない。しかし、空にはものが入るという話だ。簡単に比喩すると、コップにふたがあるかないかだ。0はふたがあり、あけられない。そこに0というふたつきのコップがある。しかし、空はふたがない。ものが入る。
0の発見という話の中に、0と書いておくと、そこには他の数字は入らない。0の意味はここにある。-1と0と+1と数直線で表されると説明を聞いた時、なるほどと納得した。すべては空「くう」であるという仏教の教えに出てくるものと少し違う。空(から)だからそこにはものが存在する。それは0と少し違うという話である。
吸って吐いて、吸いはじめると、肺の中に空気が入る。「吐いて」と空気を吐き出す。ずっと吐いたままにはできない。吐いた瞬間と吸う瞬間の間に0がある。数直線的な話である。しかし、プラス方向とマイナス方向の中間と考えると、物事の移りかわりを考えるのに0は便利だ。空(から)はものが入るので、肺の中を考えるモデルにはよい。吐いての肺は空っぽだ。
もう一つ空っぽの話をすると、要素を一切もたない空集合は、他の集合と違うものの、集合には間違いないが、まさにからっぽである。空集合は要素として同じものが存在しない。つまり、だれからも必要とされないとのたとえにもなる。世の中に空集合と自らを呼ぶ人がいると、すれば人間としては悲しい。人間という文字を考える限り、人と人の間に存在するという定義であれば、空集合と考える人間は存在しえない。
心を空っぽにできるためには、空っぽの空間が必要だ。よくサンタクロ-スがいるかいないかを論争するとき、「いる」と信じている子供に共通してみられるのは夢をもてるということだ。サンタクロ-スがいないとわかってきてもいると信じた思いは消えない。サンタクロースの部屋には今度は夢が住んでいる。話はあちこちとなっているが、0と空の違いがなんとなくわかった気がする。
加点、減点の評価の話では、なかなか0が難しい。可もなく不可もなくという存在なのだろうが、0と評価するのはいかがなものか。あれも0これも0の人間より+や-で話題になる方が人間らしい。空欄のままであれば、忘れたのかと疑われる。できれば、可能性や許容量を評価したほうが良い。期待値評価はどうだろうか。人の見方として、評価者が評価されるかもしれない。(笑い) 先入観をもたずに人を見るはなかなか難しい。ましてや評価するとなると、結果や実績にこだわってしまう。その過程も評価するというが、顕著な結果に基づくと評価する方は失敗がない。人を育てるには取り組む態度や意欲も加味したいものだ。もっと掘り下げると、「仕事を楽しめるか」「考え方は楽天的か」などとその人の空の部分の大きさを気づけば結構おもしろいと考える。0と空の話もここまで来てしまった。「評価はかくあるべし」と終わりにしたい。