「自己を見つめる力」について考えてみたい。自己をどう見るかでその人の生き方も変わる。自分とは何かは哲学的な問いのようであるが、その問いを発することに大きな意味がある。自分がよくわからないのでは、なかなか夢の実現に踏み出すこともできない。つまり、現在の位置がわかってこそ夢までの距離もわかる。人は「比べること」を通して自分と目標との距離を理解することができる。自分はどこにいるのかは、他人や過去の自分と比べたりして、把握しようとする。これらをすべて「自己を見つめる」行為としてとらえたい。過去の自分から考えてみると、何か一つでも変われば、どれだけ成長したかを感じることができるはずだ。
しかし、日常の生活の中ではなかなか自分が見えない。つまり、見失っていることも多い。ひどい時は、目的をすっかり忘れてしまう。「喝」という言葉は自分を見つめるスイッチを入れる言葉である。同じ効果のある言葉として、「主人公」の声掛けをしたい。自分が主人公だと考えて、「私は~」「僕は~」と第1人称を意識できるかという話だ。人生は、簡単に言うと、僕や私の物語である。すべてにおいて主体は自分である。他人のドラマに友情出演しているのではない。自分が関係しないで物事は進まない。だから、「主人公は君」である。
小さいころ、夕ご飯を食べておなかいっぱいになり…、気が付くとふとんの中にぬくぬくと寝ていた。机の上が散れていてもいつのまにか整理されていた。今考えると、母が運び、母が片づけたのだろう。今はふとんに寝かされることも机の上がかたづくこともない。当たり前といえば、当たり前である。何一つ、自動的に、片付くことはない。僕が関わらないと身の回りはいっこうに変わらないし、話はまったく進まない。主人公たるものはぼ-っと生きていてはいけない。水谷豊のドラマの主題歌、「人生紙芝居」では、「そして、だれもが主人公」と歌う場面があった。当たり前だと思っていたが、そう言わないとわからない場面がある。人は毎日の生活に流されて自分の立場を忘れてしまう。 昔話を一人称で書くと実におもしろい。国語の時間では視点を変えて物語を書き直すことがある。視点が変わると物語が変わる。「主人公」の掛け声は、一人称の視点を忘れてはならないということだ。どんな小さなことも自分でやらない限り終わらない。「自分のことにしなさい」という話だ。人には責任があるし、仕事から逃げてはいけない。他人事にしてよい仕事はできない。今の自分に納得できているかを問いかけるべきだ。その意味では自分を見失うことのないように、「主人公」と問いかけたい。自分を意識すると、取組を深めたり、やる気を出したりが可能になる。名前を呼ばれると、人は生き返ることがあるらしい。危ない場面では「呼びかけてください」とお医者さんから言われる。呼びかけにはまちがなく効果がある。「主人公は君だ」の呼びかけを続けたい。