なぜか、ポ-の一族の絵を見に行った。吸血鬼の話なのだが、萩尾 望都さんの手にかかると美しい漫画になる。思えば、漫画こそ昭和の文化といえる。エドガ-とアランという美少年は吸血鬼だから、死なない、年をとらないから、同じ姿でいろいろな時代に出現する。年表でいうと200年くらいである。二人を取り上げた短編、長編あわせて、数多くの作品が存在する。この漫画のファンは40代以上であるが、なかなかどうして時代をこえる魅力がある。
「鬼滅の刃」のヒットで漫画アニメがブ-ムである。なめらかな動きやカメラワ-クで見る人の心をつかんで離さない。ところが、このアニメには紙芝居的な要素がある。静止画に近い場面があちこちに存在する。余計なものを見せない工夫だ。多くの人が一斉にしゃべるという場面が少ない。必要な人に必要なだけ、しゃべらせてメッセ-ジを確実に伝える。初期のアニメは背景もなく、人物のみだった。しゃべらせることも一苦労だったに違いない。そんなレトロ感を鬼滅がもっているのが不思議だし、それも人気の秘密のような気がする。
鉄腕アトムと同じころ、エイトマンという漫画があった。東幸太郎という探偵が事件に巻き込まれて死に、サイボ-グとして復活する。体に原子力を作り出す装置を入れて、音速と同じ速さで走れるという設定である。このエイトマンの走りは今の子供に見せたらなんといわれるだろうか。上半身のポ-ズは固まったまま、走る足は目に留まらないので、直線が引かれている。それを補うかのように「走れエイトマン、風よりも速く…」とテ-マが流れる。その曲を聴くたびに、速く走る彼を目の前に見た気になった。そして、走った後には、必ず、原子力装置を冷却する必要性で彼はたばこを吸う。説明ではこのタバコは原子炉を冷却する薬剤となっていた。このかっこよい休憩を子供たちはタバコチョコでマネしたものだ。少年たちはタバコをふかすカッコよさを学んだ。
漫画の神様、手塚さんの遺伝子は数々の漫画家を生んだ、令和の「鬼滅の刃」も「鉄腕アトム」がなければ存在しなかった。漫画が生まれ、世界へと広まり、日本の文化の一つとなった。このことに昭和のすばらしさを主張したい。昭和は混とんとした時代であった。だからこそ、そこに多くの文化が生まれた。カオスには何かが生まれる可能性が高い。コロナの時代もその意味では実に可能性に満ち溢れた時代だ。よいとか、悪いとかの基準をこえる生き残るための知恵の結晶がいろいろと出てくる。漫画のヒットはレコ大や映画収入にも跳ね返っている。この時代をうまくとらえたプロデュ-スの成功例である。メディア同士のよさのミックス、つまりは、掛け算型の効果である。
そもそも道というのは歩く人が多くなれば道になる。はじめに何人をそこに歩かせられるかということが大切だといえる。魯迅の「故郷」の最期の一文の答えもここにあるようだ。