昔物語、童話には隠された常識があるように感じる。たとえば、「大きなかぶ」という小学校で学習する国語の教材だ。かぶを引っこ抜くという簡単な話だが、登場する人物や動物の出てくる順番などに不思議な感じがした。ロシアの童話だと考えると、マトリョーシカ人形的な並びから発想したのではと考えてしまう。かぶが抜けないのであれば3番目にくるのは、息子かあるいは娘であろう。孫が来ること自体から変だ。ここに隠された常識があるのではと考えてしまう。
こんび太郎や一寸法師では、子供に恵まれない年寄り夫婦が神様にお祈りして子供が授かる。本来ならありえないことなので、特異な子供として誕生するという設定がすんなりと受け止められる。孔子の誕生では父と母が「野合して」と書かれている。なんか驚く表現だが、これは、父と母の年が離れていて珍しい結婚という意味だ。「破天荒」と同じで字面だけではなかなかたどり着けない。
徒然草の「ねこまた」には、かけ事好きな法師が飼い犬を猫また(猫が長生きすると化けるという妖怪)と間違えて、さんざんな目にあう話には必然性がある。今でこそアスファルトできれいに整備された街並みは当時は全然違う景色だった。書かれた時代は無数の小川が流れる湿地帯であった。真っ暗闇の中、慣れた道とはいえ、場所的にも何か出てきそうだ。法師のくせにかけ事している。やましい気持ちでいっぱいだ。猫又と思い込むから、転げて小川にはまり、かけ事で得た商品もずぶぬれになる。当時の人はこの地名を聞いたり、法師の名前を連想しただけで、このような話の結末が見えたわけである。
かぐや姫の話では、昇天の時、帝に不死の薬を、翁と媼に形見の着物を贈る場面がある。着物を贈るのがこの当時の最高のプレゼントである。古着を始末したわけではない。自分の体の一部を残したようなものである。まあ、不死の薬は山で燃やされてこの世に残らないと矛盾がないように話が展開され、焼いた場所が不二の山つまり富士山になるというしかけだ。この隠された常識は鑑賞していく上で大きなカギになる。作者と読者の距離感の問題を読解という行為の中で考えていく必要がある。つまり、翻訳文学や古典などもこの部分をぬきにして鑑賞はできない。 多くの翻訳小説はキリスト教の素地をしっかりと押さえて読んでいく必要がある。また、レンガづくりと木材建築とは当然違うので、「アンネの日記」の隠れ家だって簡単に見つからない。日本と違う隠し部屋の構造も考えられる。日本の家屋にはあんなに気密性高くないのですぐに見つかってしまうだろう。何年も潜伏するのは難しい。「レーミゼラブル」の舞台のパリは、下水道が整備されている。革命の混乱の中、逃亡するにはこのことは大事だ。幾重にも常識の伏線があるのも事実だ。