きばっど その時々の初心をもう一度 2019.4.11
その時々に初心がある。1年時、2年時、3年時の初心を忘れないで、活動の質を高めたい。あいさつ一つも違ってほしい。2年生と3年生のあいさつは違う。そこに1年という経験がある。元気よく大声を出すだけなら3日もあればできる。あいさつは廊下ですれ違う時と、職員室の前では違って当たり前だ。立ち止まりしっかり礼をしても、TPOで音量は変えられないのだろうか。
花伝書の中で、「時々の初心」は、歳とともに、その時々に積み重ねていくものと説明されている。若い頃から、最盛期を経て、老年に至るまで、その時々にあった演じ方をすることが大切だ。その時々の演技をその場限りで忘れてしまっては、次に演ずる時に、身についたものは何も残らない。過去に演じた一つひとつを、全部身につけておけば、年月を経れば、全てに味がでるものだ。
始まりの時は、みんな間違いなく初心者だった。それではどこで差がついたのだろうか。自分の今までをメタ認知(客観的に見つめる)すると、自分の学び方や態度の問題点がみえてくる。歳とともに積み重ねていくものと考える「時々の初心」はレベルを高める上で、考え方のヒントになる話だ。当然、一度、身につけたものは一生ものだ。花伝書は芸事の習得を前提に書かれた書ではあるが、その習得過程は人生の発達段階と非常に似ている。多くのビジネス書などで、今でもよく取り上げられていることもなるほどとうなづける。
さて、この2つの「初心」の後に「老後の初心」という部分がある。「ぜひの初心」、「時々の初心」と忘れずにしっかり生きて、「その後の初心」としてぜひ必要だと考えてみたい。若いころから芸を積み重ね、20代、30代と時々の初心を忘れずに芸を磨いてきた。しかし、それで終わってはならないという話だ。
取り上げられた「初心忘るべからず」とは、それまで経験したことがないことに対して、自分の未熟さを受け入れながらも、その新しい事態に挑戦していく心構え、その姿を言っているようだ。その姿を忘れなければ、中年になっても、老年になっても、どんな時でも新しい試練に向かっていくことができる。大事なのはいつも私たち自身が人生の初心者であると自覚することだ。失敗を恐れない、避けない、恥ずかしがらない、身につけよ、ということなのだろう。
昔も今も、さまざまな人生のステージ(段階)で、未体験のことへ踏み込んでいくことが求められる。世阿弥の言によれば、「老いる」こと自体もまた、未経験なことであり、そういう時こそが「初心」に立つ時である。そう考えると、老後の初心こそが真の初心なのかもしれない。「青春とは」「青年とは」の解答にはなかなかぴったりの言葉がない。しかし、「老後の初心」は大いにヒントになる。老いることさえも初めての体験とし、不安と恐れをもつことなく、新たに挑戦していく。初心はいつでも人生へのチャレンジの一歩なのだ。