日本の教育で人間力は育つのか。答えはまちがいなく育つ。そうじ、給食、行事をきちんとすれば人間力は育つ。外国には宗教の時間があるが、日本では生活丸ごとの教育がある。これこそが人間力、とりわけ協働や思いやり、助け合いをにつながる標準的な日本人を作り出している。教科以外の力は、どんな生活を送るかでつく。育英館の三本柱はその意味では実に重要で、キリスト教や仏教に匹敵すると考える。卒業生と語ると、一味違う若者たちの印象をよく受ける。とりわけ、あいさつがよい。話を聞く態度もよい。そして、返事が良い。これだけできる若者はなかなか見ない。育英館の生活指導が作り上げた作品だと考える。
「頼まれごとは試されごと」の中村さんの話の中にも、あいさつができると、本人のひたむきさや真剣さがすぐに相手に通じるとあった。挨拶一つで人間関係はうまくいく。その基礎・基本が備わるのとそうでないのでは社会に出たときに得をするかどうか、全然違ってくる。道義の基本は礼法だといっても過言ではない。場数を踏めば応用する力もつくので、あいさつができることで必ず未来が開けていくから不思議だ。
次に部活動や学校行事で徹底して協力することを学んでいる。異年齢集団の応援団はまさに郷中教育である。先輩が後輩を指導する1ヶ月は実に貴重な時間だ。人間を育てるのに理と情があるとすれば、兼ね備えた優れたモデルを提示することほどよい。西郷や大久保にも優れたモデルがあった。若き頃、師と仰ぐ赤山靭負(あかやまゆきえ)である。今回のドラマはこの人物をうまく取り上げている。
青春時代にあこがれるモデルをもてると幸せだ。まさに「夢が人をつくり人が夢をつくる」だ。西郷どんの中に出てくる人々は実に魅力的である。しかし、幕末の薩摩藩だけが優れていたのだろうか。あの時代は250年の平和が作り出した教育システムが最盛期をむかえた。結果、日本各地で多くの若者が時代を変えようと試行錯誤した。日本各地に西郷や大久保がいたのである。たまたま、鹿児島には郷中教育があった。
赤山が門弟にいもこじをさりげなく語る場面がある。「おまえたちはイモだ」と語り始め、形のふぞろいの芋同士を一つの桶の中で洗うとお互いを磨きあい、泥や汚れがとれてきれいになっていくと教える。まさに郷中教育の本質を言い当てた表現で、ここで彼に語らせるとは脚本家もなかなかやるなあと感じた。
学習の完成は人に教えることだ。そこまでいくと自信がつく。先生と生徒の立場が逆転するところがおもしろい。教える側は、相手に合わすことや待つことを学ぶ。教えることは簡単ではない。こんな教え方でよいのかと考える。そういう体験を通して、人は人間力も磨く。学んでいるうちはたいしたことない。学び方が無数にあるように教え方も無数にあってよい。ただし、あこがれる人から習うとその教科も好きになる。気持ちよく学べば、学力はあがる。とにもかくにも、薩摩の偉人たちの人間力はその人の魅力でもあった。どんなイモでも磨きあえば、きれいになる。教える、教わるの立場がくるくると変わるのもいもこじに違いない。いろんな形のイモが、教え合い、学びあい、そして、磨きあう。ALよりもきっと甘い味がしそうだ。