森田健作(現千葉県知事)主演の青春ドラマに「さらば涙と言おう」という主題歌があった。知る人ぞ知るナツメロの定番である。さよならを悲しみに言うというフレ-ズが実に印象深い。その一節は「さよならは誰に言う さよならは悲しみに 雨の降る日を待って さらば涙と言おう。」というものだ。天候を指定して「雨の降る日を待って」言うとなっている。なぜ、「雨の降る日」なのかとこだわり、「さよならを言う」のもなぜかといろいろと、「別れ」について考えてみた。
仏教でいう「老病死苦」の世の中では、悪いことには「さよなら」とだれもが言いたいものだ。ところが、この苦のもとは「生まれてきたこと」となっており、逃れることはだれもできない。「苦」に出会うのはしかたない。それなら、次の出会いを求めて、「苦」と積極的に別れることも大切だと考えたい。やっぱり、雨の降る日というか、ここというところで「さらば」ということが肝心だ。作詞家の偉いのは、雨が降っていれば、涙が出ているかどうか自分にもわからないので好都合と考えたことだ。これはこれでさよならと確かに言いやすい。めそめそ泣いて暮らすより、雨の日といっしょに別れて、新しい出会いを求めればそれでよい。きっとそのほうが良い。
こう考えると、人生では捨てるとか、別れるも積極的にすることが大事だ。若い時から、生徒たちにも「捨てる、別れる」経験をさせたいと思う。物と別れられない人によるごみ屋敷が一時期、社会問題となり、「断・捨・離」がブ-ムになった。一つのことに別れを告げて、初めて先に進める。そんな体験をさせておかないと、けじめをつけるタイミングがわからなくなる。家庭では葬式、学校では儀式的な行事が出会いや別れを演出する役割を担っていたのだろうと考えられる。残念なことだが、今ではその意味さえなかなか分かりにくくなっていることも事実だ。
「22才の別れ」という曲は伊勢正三さんがかぐや姫時代に作ったものだ。今でもある年齢から上の人は22才で別れることにあこがれた自分をもっている。(笑い) 大学生活と就職してからは大きく違う。一つの世界に別れて次の世界に出会うのだ。この想いは、同時期の歌「いちご白書をもう一度」にも象徴されている。バブルから新しい時代へ、良い悪いは別として、このころの日本は多くのものを捨ててきた。
今日の自分を否定して、明日の自分を高めていくのが成長の法則だ。迷いなくすべてを捨てろとは言わないが、捨てなければならないときはできるだけ潔く捨てたい。日新公いろは歌の中に、大事な局面での生き方は、「涼しかるべし」という歌もある。物にとらわれない「涼しい」生き方ができるようにかねてから心掛けたい。
フ-テンの寅さんは失恋する度に旅に出る。今の自分とさよならするために場所を変える。これも一つの方法である。今の自分が執着するものを捨て去れば、新しい自分が見えるのだろうか。別れの後に出会いがある。それは新しい自分との出会いでもある。「戦争と平和」、「女の一生」のラストも新しい自分との出会いを予感させる。「別れの後に出会い」をキ-ワ-ドにして、潔くこの一年をしめくくりたい。そして、新しい自分との出会いを楽しみにしたい。皆様、よいお年を