きばっど育英館 卵をたべない孫 H29.6.12
道徳の教科化が話題になっている。いじめのアンケ-トがとられている。いじめの授業の中で脳の話があった。孫が卵を食べなくなった。目の前にあるこれらのことは関係があると思えてしかたない。道徳を考える話を始めたい。
皆さんが小さいころ読んだ「はらぺこあおむし」を思い出してみよう。この話は卵からあおむしが生まれるところから始まる。この絵本を孫に読んで聞かせた。はらぺこあおむしは曜日ごとにいろいろな果実を食べていく。最後には子どもの好きそうなものを腹いっぱい食べる。この場面が一番印象的でおもしろい。しかし、この孫は卵からあおむしが出てくる場面が心に残ったらしい。ニワトリや恐竜の卵、いろいろな卵に命が宿ることを絵本やテレビで知った彼は卵を食べるわけにいかないと思ったようだ。生命誕生の神秘は、こんな小さい子供にも感動を与えているようだ。
道徳の教科化で何を教えるのかと考えたとき、その生徒がもつ価値を変えていけるような授業が必要である。授業過程で現実の自分とかかわる話合いが必要なのである。少なくとも小さな子が食べてはいけないと価値が変容するような授業をめざしたい。
いじめられると脳の中の生きる力をつかさどる部分が弱り…、と指導案の資料にあった。そこで、脳の話を少ししよう。成人の脳の中には、動物的な自己、規範的な自己、それらを調整する自己がある。動物的な自己はエド、あるいは、イドと呼ばれ、本能のおもむくままに行動する一番エネルギシュな自己である。しかし、これを押さえつける超自我(親のしつけや世の中の規範)が存在している。だから、動物的に行動することはない。しかし、この両者は常に争う。そこで、調整役としての自己が形成される。生まれた頃は動物的な自我がほとんどを占めている。それと親が関わり、トイレ、食事、身の回りと規範が教えられていく。家庭から社会へと活動範囲が広がり、そこで人のものを盗み、人に迷惑をかけると、厳しくしつけられる。そうやって、超自我が形成される。親の教育方針やまわりの環境で超自我の強さが決まる。2つの自我の争いばかりで、行動が決められないとやってられないので、調整役が必要となる。この自我は2つの自我の葛藤のたびに出現して、調整し、次第にその役目を大きくなり、自我の大半をしめていく。調整役のさじかげんが今の我々の行動である。
さて、いじめアンケ-トを例にとると、いいかげんな調整役の自我が主導権にぎって解答を書くと、「これくらいいじめに入らない」と考えてしまう。本当にそれでよいのだろうか。命が宿る卵を食べるわけにいかないと信じている幼子の超自我と同じように、いじめはけっして許されないと中・高校生の自我には認識させたい。そこで、道徳の授業では、本当に自分の自我はどのあたりの価値で調整しているのかを再認識させたい。けっして、絶対にと考える超自我は存在していると信じているが、行動させる調整役の自我を覚醒させる必要がある。
身近に命の尊さを考える教材を準備したい。はらぺこあおむしの話のようにどこに反応するかは個性である。道徳の授業は35時間、身につけさせたい徳目を考えたとき、どれもが貴重な1時間である。いろいろなもの(価値)を食べて初めて美しい蝶になるようだ。