きばっど育英館 大きさの自覚 H29.5.17
生徒たちはどの程度正確に身の回りの大きさを自覚できているだろうか。
まず10キロの重さ、その重さをものにたとえて説明できるだろうか。ちなみに1円は直径1センチほぼ1グラムである。ペットボトルは500CCで500グラム、大きなものが1リットルまた、2リットルである。だから、10キロはペットボトル500CCなら20本である。
距離の感覚はどうだろうか。地図の1キロはどのくらいなのか。縮尺でいう1/25000や1/50000では違うのだが、歩いて10分程度の距離として体感できているだろうか。交通機関に頼り、移動がスム-ズだと、距離感は違ってくる。自然災害で遮断されたとき、実感するのでは危うい。地図の勉強ではないが、「1キロは一円玉を何個並べるとよいですか」と縮尺上での1センチの感覚を意識させるのもおもしろい。
当然、高さについても階段を使い、上がって初めて、高さをかなりリアルに実感できる。県庁に勤務した時分に、17階まで体力づくりで階段を上り下りしてみた。下りも登りも10階ぐらいが限度である。「ひざが笑う」という体験ができた貴重な経験だった。ちなみに育英館の校舎は3階だから、当然10メ-トル以上はあるだろう。しかし、「20メ-トルを超す津波が迫る」がどれほど恐ろしい話なのかも想像できる高さとしてとらえさせたい。
奈良の大仏の大きさを自覚させるために、机、イスを教室の後ろに下げ、広幅用紙に書いた大仏の手のひらで授業する社会科の先生がいた。太陽と地球の距離をボールにたとえて、授業する理科の先生もいた。今考えると、どの教科をとっても大きさの自覚はなかなか大変だ。
道徳の時間はどうだろうか。地球と同じくらい重いといわれる命の重さ、本当に分かるにはどう教えればよいのか。人間を有機体として考えると、成人の人間の成分の一つ、石灰質を集めてチョ-クを作れば5、6本、鉄分を取り出せばパチンコ玉5、6個らしい。その他の部分も、皮、肉と活用したとしても、せいぜい高く見積もっても5000円ぐらいのものだろう。ものの大きさとして考えれば、利用価値も含めて、このあたりで終わる。さて、「地球よりも重い」とはどう考えればよいのだろう。
道徳の授業として取り上げてみたい。一人の人間がその年まで成長するのにかかわった人の数、果たしてきた役割や仕事の業績など、どれをとってもその人間の代わりはいない。そう考えると、それはそれですごい価値になるとうなづける。なにしろ、生まれてくるのには両親がいるし、その親にもそれぞれ両親がいたわけだし、と命の連続を考えてみても、命が軽いなんて言える材料は何ひとつない。私たちはその命の重さを自覚して生きているのだろうか。命の重さを考えて、「生きているのでなく、生かされている」と考えいたることが大切なのかもしれない。
大きさの自覚の話を続けると、「年齢」もすごい大きさだ。「1年365日、生きてきた」が30歳を過ぎるころから、10000日を超えてくる。60歳にもなれば、20000日だ。時間に換算すればさらにすごい数だ。その間、とまらずに生きてきた。そう考えただけで、感謝と感動だ。
大きさの自覚は身の回りの数字から始まり、自分にかかわる命の重大さまで考えが及ぶ時、生きることを振り返るチャンスになるのかもしれない。一人一人がかけがえのない存在であると気づくためにも、ぜひ大きさの自覚は必要だろう。時の記念日は6月10日である。自分が生きてきた時間をふり返る誕生日も個々の時の記念日だ。大きさを自覚すると、一日一日の大切さも見えてくるから不思議だ。