一度は体験してみるとよいと言われ、その気になり、武者行列の練習に参加した。右手を直角にまげて手のひらを天に返す。左手は刀の柄の先端を押すように握りすり足で歩く。そして、曲がるときは直角に曲がる。立ち止まり、左足から踏み出す。これを1時間ずつ練習する。その後、5M四方の正方形の枠の中に、最前列に大将、副将の3人、その後に4人ずつの5例で武者が並ぶ。社殿への入り方、並び方を確認して、儀式の練習が始まる。大将の動きに合わせ、兜を置き、足を折り、腰を下ろす。お祓いを受けるため、低頭。その後は、祭文奏上、玉串奉奠、一同拝礼と一連の流れが続く。3日ほどで、なんとなく分かってくる。祭文奏上で礼、号令がかかったら礼、立つ時は中腰、兜をもつ、立ち上がる。なんとなく、これぐらいなら、やれるかもと勘違いした。(鎧をつけると、歩くことはおろか、立つ、座るもうまくできない)
いよいよ武者行列本番、まずは、パンツ一枚になり、専用の下着を身につける。鎧装着の始まりだ。まず、脛あてをつける。上と下をひもでしばるが、中に鉄板がはいっているので。きつく縛らないと緩んでくる。向こう脛にくいこむようで痛い。次に直垂をつける。鉄板を縦に縫い合わせたもので、腰にまくとずしっとくる。次に腕と胸の部分を覆う鎧帷子をつける。これも細かい鎖を縫い込んであるので、決して軽くない。次に胴丸の部分である。二つになった卵のからをあわせるように。二人がかりで装着させる。そして、脇あたりでとめる。ここまででかなりの重量がかかる。この後がさらにすごい。刀を腰に固定するためにさらしをまく。二人かがりで、縄状によりあわせていく。それを腰のあたりにしばる。「身をしぼる」という感じが適切だ。鎧がからだにぐっとくいこんで、体全体がしまる。いよいよ刀を腰につける。体は不自由さについていけないが、気持ちが先行して気合いが入るのがわかる。手に兜をもって完成だ。今までやった歩く練習の意味がやっとここでわかった。ふつうに歩けない。前方を見据えて、すり足で気合いを入れて歩かないと歩けない。
いよいよ出陣かと思いきや、雨はさらに激しくなり、土曜の行列は行われず、社殿での儀式のみとなった。保存会の方々が傘をさしかけてくださる中を社殿に上がり、いよいよ儀式が始まった。本番では身の引き締まる思いで、あれほどきつかった鎧の感覚がなくなり、心地よい緊張感に浸っていた。薄明かりの中、大将の祭文が響く。古の人々の魂と一体化したような瞬間が幾度も訪れた。公民館に帰り、鎧を脱がされたときは、不思議な開放感がこみあげてきた。鎧櫃の中に、その鎧を代々着た人の署名があった。そこに「平成28年10月22日宮元一賴」と書かせてもらった。
不自由な感覚を知ると、自由のありがたさがわかる。戦うことはないが、鎧を着るという、体験は実に貴重な体験だった。不自由な体験は人にいろいろなことを考えさせる。将来、決断を迫られたり、苦難に遭遇したりした時、自由の価値を知り、何者にも代え難いことを知っていることは大切だ。また、「形が心を整える」ことも事実だ。「形から入り、心と成る」で、武者の姿になることで、心も武士に近づけるのかもしれない。不自由な体験の教育的意義に改めて気づかされた。