日常使っているなにげない言葉について、少し考えてみましょう。
国語学者の芳賀綏(はがやすし)氏の文章ですが、こんなことが書かれていました。
…あるドイツ人学者が、ドイツの一般市民に日本語の初歩を教えていて、幼児の年齢の数え方を、「一つ、二つ…」と教えたところ、聴衆の中にもぐり込んでいた若い日本人が、そんなことは言わない、一歳、二歳だ、と言い張ったという。われわれ和語派からすれば、情けない日本人が出てきたものだと思う。「お年はいくつ?」「三つ」━━これが日本人の会話だ。「年齢は何歳なの?」「三歳」。いやらしい。戸籍調べじゃあるまいし。…
【雑誌「國文學解釈と教材の研究」1984年5月号「特集:ことばの謎」収載「ことばのひびき、語感の調和はくずれるか」より】
そこで、考えたのですが…合祀される魂や祭られている神を数える「柱」であるが、和語読みで「ひと、ふ、み」と数えたいものだ。よって「八柱」は「やはしら」と読みたいものだ。しかし、明治政府の漢語好きが、平成の御代でもしっかりと定着している。「はちはしら」と読まれる方が多い。私は和語派で前者が好き、耳に響く音もよいと感じますが。いかがですか?神様にとっては、どちらも同じといえばそれまでですが…さらに、番号をふるようになったのも明治時代からで、昔は番号もなく羅列してあるのが本来の形である。後世にあの17条憲法にも「一つ」が頭についたようだ。明治時代から始まったこの「一つ、○○」の言い方は、大切なものを確認するための言い回しとして現在まで定着している。建学の精神の3つの要素は、順番をつけられないどれも大切なものであるという訳だ。そういう意味でしっかりと唱和したい。
なぜ、こんな話になるかと疑問をお持ちの方も多いでしょうが、「探究」というキ-ワ-ドが新学習指導要領の中に出てくるからには、言葉も探究したい。おやと思ったら、どこまでも追究する姿勢が今まで以上に必要となる。「持ち」と「もち」の使い分けも同じで、「物を持つ」はあるが、気持ちとなると、「もつ」だと書き分けることがある。確かに気持ちを荷物のようには持てない。日本語の探究から始まって、すべての教科でこの探究を具体的に考えてほしい。自分から調べてみると教科に対する興味・関心は飛躍的に高まる。育英館には他の学校にないものがある。それは探究を通した知的な興奮、知る喜びであると紹介できるとすばらしい。教えるプロとして、探究の一点はだれにも負けないと、誇りをもってがんばりましょう。
授業で勝負です。